gavangavanの日記

書きたいことを書いております。

ダダ漏れより垂れ流しがいい。

昨日のNHKメディア討論の裏USTにて。
ホリエモンが「11億くらいでMXテレビが1年運営できるんならニコ動が買っちゃえばいいじゃないの。オレだったら買ってる」と発言。ニコ動の川上氏(@kawangoがこれを受けて「MXテレビのコンテンツが魅力的とは思わない」「キャリアとしての電波として見ても、ネット使えばいいので別に欲しいと思わない」と語った。

川上氏に共感できる部分もあるが、僕はホリエモンのセンスがするどいのだとおもう。正直にいっちゃえば、
ニコ動は(も)苦痛である。

たぶん川上氏には、いまの(あるいは近い将来の)ニコ動のI/Fで、さまざま動画がみれて、生放送すらもユーザ権限でもでき、テレビの代替として機能するという自負があるのだとおもう。「一日200万ユーザのアクセスがある。平均視聴時間が1時間」という発言にも経営者としての自信(過信とは私は決して思わない)を感じる。

しかし私にはニコ動は苦痛である。youtubeも苦痛だ。

まず検索は嫌いだ。見たい番組が事前に確定しているなら、twitterや検索サイトの結果でリンクが手にはいるからクリックするだけから,それはいい。しかしこういうテーマの、という放送を探すのは骨がおれる。

またかならずしもニコ動のテーマ分けページは適切じゃない(使えるのは「やってみた」くらい」)。昨日の裏USTと並行して途中からニコ生でも放送した番組。これ私は探せなかった。臨時公式放送とはいえ、私には見つけられないのだ。メニュー画面との格闘ほど人生でいやなものはない。

人間なにに興味をもつかは自分ですらわからない。ぼおっと眺めていて、お、とおもってひっかかる。そのとっかかりは必ずしもキーワードではないし、テーマでもない。映像なら映像、音楽なら音楽だ。だからこそ「ザッピング」が大事なのだとおもう。

このブログで何度か書いているが、twitterではフォローやリストというメカニズムをつかってタイムラインをユーザ自身が「編集し」、そのタイムラインを「ザッピング」している。ひっかかるツイートがみつかれば、RTしたりリプライしたりふぁぼったりする。大量の垂れ流しのなかに身を投げて、流れてきた板切れにつかまっていきつくところに流れて行く、そんな感じの体験をしているのだとおもう。

これは検索やらメニュー選択やらとは全然違う体験だ。なにせめんどくさくない。なまけもの、精神の堕落というなかれ。私はなにもしたくなくてこう言っているのではない。ほかにしたいことがあって時間が有限だからこそ、検索とかメニュー探しになんか時間を使いたくないだけだ。

テレビ、いやテレビ放送システムとういうべきか、はこれができるメディアなのだ。チャンネルというキャリアが実質的なコンテンツコンテナとなって、怒涛のごとくひきりなしに映像を流し続けている。いつつけてもなにか写っていて話が動いていく。つまらなければ別のチャネルに変えてみればいい。

むかしはこれでどっかのチャネルにひっかかったし、引っかからなくても他に選ぶ余地がないので、なにがしかのチャンネルのテレビがついていた。このザッピング体験は人々の精神に染み付いてしまった。らくちんなのだ。

「ダダ漏れ」はUSTを使ってポピュラーになり、あちこちでゲリラ的パーソナル放送が日常的におこなわれるようになった。しかし一つ一つのコンテンツは砂粒のようでばらばらだ。それらを結びつけるのはダダ漏れ自身ではなく、ましてキーワード検索などでもなく、「垂れ流し」メディアたるtwitterがメインだ。垂れ流しのチャネル(タイムライン)のなかにコンテンツが包摂されていく。

コンテナは垂れ流しであるべきだ。

垂れ流しメディアであるがゆえに、「MXテレビ」のキャリアには価値があるのだ。ホリエモンのいう「ニコ動をMXテレビでやったらいいじゃん」というのは非常に示唆的だ。ニコ動が垂れ流しになるなら、しかもそこからネットの個別のコンテンツにジャンプできるならこれはすごいことだ。問題はいろいろあるが、動画サイトの垂れ流し化が新しいテレビのあり方につながっていると私は考えている。