gavangavanの日記

書きたいことを書いております。

オタキングexと「評価経済」というものについて

岡田斗司夫さん(@ToshioOkada)が近頃オタキングexという会社を立ち上げて、有志と面白そうなことをはじめた。会社といっても社員は月1万円を会社に支払い岡田さんといっしょに仕事をするという不思議な試みだ。ぱっとみには研修所のような趣もある(実際社員には若い人が多そうだ。しかしある程度の年配者もいるみたい)。

断片的に得ている情報からは、いわゆるフリーミアムの考え方に沿って、岡田さんの今後のアクティビティを次第にフリー化していき、多くの人は無償でほとんどのサービスがうけられる、有償会員には何らかの特典があり(一緒に仕事をする権利が含まれるらしい)、その会費が会社の企画運営資金として活用される、というしかけのようだ。

ようだ、というのは、岡田さんがツイッターやブログで公開した情報だけからは全体の詳細はまだ明らかではなく(これには当方の感受性の問題も多分にある)、会社の企画・立ち上げ自体が3月中旬ごろから急ピッチで勧められた、しかもそれに携わっているのが経験豊富とはいえない新人社員たち(新規の会社なのだからそりゃそうだ)なので、会社サイトもまだ完成には程遠く、すべてが社員以外には公開された状態ではないからだ。

しかしサイトオープンの様子(システム面でいろいろトラブルがあり次第にそれを解消していった様子もふくめて)がUSTで中継されたりして、とても興味深いスタートだった。私もさっそくオープンしたてのサイトにいってIDを取得し(誰でも取得できる)用意されている非社員用掲示板(来社記念書き込み用とカフェバベルという議論用掲示板)にかきこんでいる。

ここにはさすがにこういう面白そうな、といっても表層がおもしろいのではなく、一段入り込んだところまでを透かしてみることをするととたんに面白くなる部類のアクティビティ、に引き寄せられて集まっている人ばかりなので、とくにスレ立てしたり書き込みをやっている人には興味深いキャラクターが多い。

ここの掲示板はIDごとに過去の発言を時間をたどって閲覧することができるようになっていて、いわゆる匿名掲示板のように「場所」に発言が張り付けられているよりは、若干「人」に発言がバインドされるようなしかけをいれてある。ツイッター程徹底してはいないものの、このしかけはこの会社がやろうとしていること(外に対する企画とは別に、それらの企画を実行する内部過程の構造としての会社組織のあり方みたいな)を示唆していているように思う。

貨幣価値経済から「評価価値経済」へ、というスローガンめいた言葉がこのサイトには出てくる。「評価価値経済」という言葉はタームとして確立してはいないようなのでかぎかっこつきで表記しておくが、お金を集めることを至上原理とする社会から、他人からの評価を集めることを原理とする社会・経済システムへの転換をすることが、世界をちょっとだけ救うことに繋がる、と岡田さんは主張している。サイトでは掲示板にてこの「評価価値経済」とはどんなもので、どういうあり方がよいのか、いろいろ議論が行われている。

私自身は、この「祭り」に参加している「人」に興味があるので(おもしろい人が多そうだから)、必ずしもこの会社の「野望」には現時点で深くコミットしていないのだが、フリーミアムの考え方の帰結としてそういうものがあってもおかしくないか、くらいに思っている。

ただ、お金から「評価」へ、といわれてもピンとこないのも事実だったりする。「評価」を数値化する実験をサイト内(社員だけが閲覧できる)でおこなっているらしいのだが、数値化して流通するような「評価」というのはすなわち貨幣としての機能をもつわけで、それって現代的な管理通貨制度における通貨と大差ない気もする。実際、その評価がサイト内にとどまっているだけならいいが、現実にみんなが生活している世界ではお金で価値の交換が行われているので、当然「評価」という名の新通貨も現実のお金に両替されることが容易に想像できる。セカンドライフとかMMOG世界の仮想貨幣とおんなじで。

そうすると、これは厳然たる経済学の法則(社会法則)にしばられて機能するわけだよね。たとえばたくさん貨幣をつくればインフレするとか。「現実の貨幣は有限量だけど「評価」は無尽蔵なので。。。」という言説がサイト掲示板の議論にも出てきているんだけど(岡田さん自身もそういっていたかもしれない)、それなら現実の貨幣(紙幣)だって実はおんなじだ。政府や通貨銀行が貨幣をたくさんつくることは自由で原理的にはいくらでも可能なのだけど、それをやるとインフレしてコントロールが聞かなくなるから、実質的に流通できる貨幣の量には制限がある。ひょっとすると評価もそうなるかもしれない。

つまり、この手の話をきちんとした土台の上で議論するには経済学の知見がどうしても必要なんだと思う。古い経済学は役に立たない、とかいってしまってはいけない。ニュートン力学が相対論や量子論に置き換わったときでも、それぞれの新しい理論のある極限として古い理論はきちんと包摂されている。だからこそ信頼されるわけで。古典自由主義経済理論だってマルクス経済理論だって、ちゃんと近代経済理論の中である境界条件の元での極限として包摂されている。そういう議論の持っていき方ができたら、おもしろいのになあといまは感じている。

このような話は掲示板の当該スレで書き込んでみればいいのかもしれないのだけど、掲示板というのはどうも重いんだな私には。場所にはめ込まれてしまうので、言葉が一人歩きしてしまうし、正確に説明して議論を進めるには相当の覚悟も必要だ。とくに議論の流れが自分のスタンスとすこしずれているな、と感じているときには、それを押して入り込むのはかなりしんどい。

ということで私的にはまだまだ無責任に様子眺めでいる状態。思ったことについてはココに書いていくことにする。
ただし。特定の誰かを批判するつもりもないので、その辺は注意しながら書いていくことにする。