gavangavanの日記

書きたいことを書いております。

誰でも講師になればいい。-大学教育コンテンツの細分化とソーシャル的再構築-

ジャーナリストの佐々木俊尚さん@のツイート。

これをうけてつらつらツイートした一連のつぶやきをエントリにまとめてみたのが以下。しかしこれはかなり雑多な書き散らしになってしまった気がするのでツッコミどころは多々あるかと覚悟しつつ。


教科書の内容だけではその対価は0円にどんどん近づくということが誰の目にもあきらかになった。知識や過去の知的活動の成果の蓄積そのものはデジタル化されることでほぼ無料でだれでも(ネットアクセスが出来る環境があるならば)入手することが出来るようになってしまった(良い面と悪い面があるのだろうが本質的には良い面のほうが多いのだろうと思う)。そうなると、どこで課金するべきなのか、という話になるけど、材料をつかって学ぼうとしている人に教え込んでいく部分の活動、より深く、より早く、より正確に理解できるように手助けする部分の活動に対して付加価値が発生して、そこに対価が支払われるようになっていくのではないか。個人の理解度に合わせた解説、ケアなど。(ここでいう対価、というのが「お金」であるのか「信用」であるのか「評価」であるのかはよくわからないけどどれでもありうるように思う。そのどれであるのかは今回の話の本論ではないので横においておく)
教科書の内容のコピーを投げつけるだけの講義は完全に滅亡するしかない。本当にわかってるひとだけがいろんな側面からのアスペクトを加えて語ることができる。こういう評価があたりまえになっていけば、教員も少しは淘汰がかかるかもしれない。淘汰だけじゃなくて既存のリソースが洗練されるという意味でもあるのだけど。

そうするとひとりの先生や既存の教育リソースを抱える学校が教えられる分野、といのはかなり限定されてくる。えーかげんなやっつけ仕事でなんとかつじつまを合わせる、ということはできなくなるので、ちゃんと勉強してちゃんと理解できてる範囲のことしか教えられないということになってくる。なにせ教える、ということは無料で手に入るほぼ無尽蔵の学習資料で自習できない、できても手間や時間のかかるところを手助けするところにあるのだから、学位に見合うだけの所定の単位数を学生に揃えさせるためのアリバイとしての講義、なんてものは存在意義を失っていく。

いま学校の中にいる教員たちが持ってるコンテンツだけは、それなりに洗練された部分「も」あるのだが、それだけではすべての部分をカバーするのは無理なのは明らかだ。ましてデジタル化、クラウド化、ソーシャル化があらゆる分野に浸透していく世界では、新しい学問的トピックが次々にうまれていて、しかもそれは全世界的に平行して起こっているのだから、本質的にいって指数的な増加率で増えているはずだ。これを固定化された(一定数が新卒として入ってきて一定数が定年でやめていく)教育リソースでカバーしがたいのははっきりしている。
となれば教えられるひとを学校の外に求めていくほかないではないか。「誰でも教員」の時代にしていかないといけないということだ。大学はエキスパートが誰でもいつでも講師になって講義ができるようなソーシャル化を目指すべきだとつねづね思ってきた。特定の分野について造詣の深い人はたくさんいる。これをどう体系的に再構築するかが学校、ことに大学の考えなければならない喫緊の課題だと思われる。もちろん国際化や多様化は必要かもしれないが、10年前に声高に叫ばれた産学連携が今どうなっているのかを考えれば、これらが決定的な役割をはたすかどうかは誰にもわからない。

それよりも、大学キャンパスのオープン化、つまり「誰でも講師」を実現する知的サロン空間としての大学の有り様を示して、そのフィールドのなかでどうマネタイズにつなげていくか、を考えるほうがよいのではないか、と思うのだ。つまり、学生から金を取るという発想ではなく、講師から金をとる、という発想への転換である。BtoCというよりBtoBへの教育産業の転換でもある。

つまりこういうことだ。講義をバラ売りするたくさんの講師がいる。登録して講義室を予約し、そこで講義(単発でもいいし数コマのシリーズでもよい)を受講者に提供する。受講者も登録制で基本的には有償。もちろん講師が一般開放したければそれでもいい。どこでどんな講義が開かれているのかをまとめてマネジメントしているのが大学運営側の仕事で、そのマネジメントと講義場所の管理にたいして講師と受講者が使用料を支払う。さまざまな講義(当然内容も程度も完成度もさまざま)を毎日朝市的にひらいてるような知的スペース。そういう新型大学(あるいみ「楽天」的)ってどうですか、ということ。

こういう話はそれこそ当の楽天だととか、ソーシャルビジネスを考えてる人たちは以前からやりたいと思ってるだろうなとは思う。なぜ教育の世界にこういう話が入り込んでいかないかというと、それは公的なコントロール下にある世界で自由化されていないから。本質的にビジネスベースでペイしない部分もある教育産業の保護という目的もあるので、その事自体を短絡的に非難するのは筋違いだが、スタンダードをとったもん勝ち、という近年のビジネス方程式からしても最初に枠線引きたいとおもっている人は多いとおもう。つまりスケールメリットがバランスするかどうかという問題。

朝市的に開かれる雑多な講義をどう学問の体系のなかに位置づけるか。単位互換の話とも関係するけど、他の講義・学問との位置関係が決まるからこそその講義の意義も客観的になるわけで、新しく現れた講義を〇〇学、と名づけて標準化した学問体系の中に配置していく権限(主導権)を握ればチャリンチャリンと儲かるということになる。この新学問の体系的再配置システムが決定的な意味をもつはずだ。パクス・ロマーナのような学問帝国主義といってもいいこの枠組に抵抗感をもつ学徒は多いかもしれないけど、世の中の学問のオーソリティというのはおよそこういう形で構築されてきたと言ってもいいと思っているがどうか(かなり攻撃的言質であることは承知している。でも決定の外にいる人から見てあらゆる決定がbruteに一見見えるのはしかたないことだし、その決定がいかに行われているのか、という面にも目を向けたいものだ)。

これを一人ひとりの講師から見るとこういう見え方になろう。ある講義を考えて実践しようとコンテンツを作る。講義室を登録して講義をはじめる。この講義は体系外の特殊講義としてはほぼ自由に開講できる(公序良俗とかいうさまざまな枠はあろうが)。このままだとその講義は面白い講義かもしれないが体系外にあるので、その講義を収めたという経験に対する普遍的な価値を受講生に保証することができない(もちろん講師自身が著名タレントや実業家といったカリスマを持っている場合は別だが、それも学問の体系の外の話であることにはかわりない)。そこで、自らの講義の内容と講義実績を権威付け(オーソライズ)してもらうことになる。これが体系内への再配置ということだ。認定といってもいい。ここにチャリンチャリンというシステムができる。

受講生からみるとこうなるだろう。このようなオープン大学へやってくるとあまたの講義が開講されているのを目の当たりにする。大学の専門講師もいれば市井の人のものもある。数学や物理といったリベラルアーツに属するものから、料理や物作り、本の書き方やらOSのインストールの仕方までいろんな実践的授業まである。どれをどう選んでいくかは全くの自由。聴くだけならば。ある講義を受講したことがどういう普遍的価値を社会に対して保証するかは、その講義のステータスに依存する。これがオーソライズされた認定講義の価値。それをいくつ、どのセットで持っているかによってその人の学問ステータスが評価されることになる(これは今までは大学の学部や学科のレベルでメンテナンスされ文科省等の公的機関によって認証されることによって提供されてきた)。自らが身につけたい評価内容によって受講する講義のセットがきまることになる。この評価基準は講義単位で受講ができることによって、あたかもツイッターのツイートが個人を微細に分解しているごとく、そしてタイムラインが膨大な個人たちのツイートの集積として成立しているがごとく、受講者ごとにカスタマイズされたものとして存立することになる。

こう見てくると、いかにもオーソリティの存在が帝国的・専制的で、学問の自由などはどこぞに吹っ飛んでしまっているようにも見える。書いている僕にもそう思える(!)。このオーソリティをいかに民主化するか、いや民主的という言葉よりも透明化するか、ということのほうが本質な気がする(なぜかといえば、素人が専門家の仕事を選択する、権威付けするのが民主化だろうけど、学問のオーソライズがその手法でできるとも思えないから)。その透明化の手段とプロセスを提供するのがwikiに代表されるソーシャルなインフラであろうとも思う。

wikiversityは果たしてそこまで考えてやってるんだろうか。そうだとしたら非常に奥の深い話だなあとおもう。公正さを取り込んだ形で理論武装しつつ、それがビジネスを成立させる土台ともなるわけで。結局標準化がビジネスモデルの根幹か…。これは欧米人の強さだよな、と感慨せずにはいられない。

以上は既存の大学、教育機関にとっては、要するに「〇〇大卒」という看板の崩壊にほかならない。真に技術・知識のある人がサプライヤーとして教育マーケットにでてくるということでもある。でもこういうソーシャル大学のようなものを考えれば、そもそも既存大学はすでに質の高いコンテンツを大量に持っているのだから後発の新企業や個人にくらべればはるかに先を歩いている。この優位性を生かさない手はないんだけど。スタンダードを自分たちがきめるヘゲモニーが今は大学にある。日本とは限らないのが問題ではあるけれども。