gavangavanの日記

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少子化と未来からの時間借金(再掲)

この記事は3年前に入院してたときにつらつらと6回シリーズでmixiに書いた記事を転載したものです。その概要というかショートバージョンは以前ここにも掲載しているので未来からの時間借金をやめようキャンペーン - gavangavanの日記、まずそっちをよんでもらって、興味がわいたら以下を読む、というのがいいでしょう。いつもにましてとにかく長いのでw。

書いた3年前と比べてそれほど事態は変化してない、というかむしろ亢進しているなあというのが実感ではあるのです。分析から実践への移行を進めていかないといけないのはたしかなんだがほんと手詰まり感しかないのが苦しいところ。そうは思いつつも書かずにいられないテーマではあるので、以下をどうぞ。

その1

サンプロでも年金問題やっていたが、長いこと考えてきていて、やっぱり「時間リソースの換金」というパラダイムが現代のいろんな社会疾病の主要因と思っている。

社会というのは、文化や理念や制度で動いているけれども、それを既定しているのは結局経済活動だ。「価値」となんなのか、をお金という尺度で換算して取引ができるようにしたのが経済という発明で、人間はこいつを共通言語に社会活動をすすめているといっていいのだと思う。(マルクス的にいえば下部構造とよんでもいいが、別にマルが嫌いなら無視してもいい)

利子という発明はずいぶん古いが、これはさまざまなものに「価値」があるなか、「時間」という取り留めのないもの(執行猶予期間、といってもいい)を価値換算するすべを与えた、画期的な発明だ。ふつうならそんなことできないじゃん、と思うのだが、人間には「期待」とか「予想」という感性があるために、それらに基づいて人間同士が決めたらいい、という発想だ。これが「自由市場」。当然いろいろな情報(未定義語だけど)や状況によって期待や予想は変わるから、市場での時間の換算価格はどんどん変動する。時間価値の時間変動。かくしてダイナミクスが駆動する。

これが為替市場であり、株式市場だ。

つづく(エウレカレントンの声で)。

その2

株や為替の市場では、今現在の純粋価値に、利子(つまり将来における価値の増減)をすべて組み込んだ(畳み込み積分した)合計価値をもとにして動く。いまは価値が低くても将来にわたって安定しているとか、上昇が見込まれるとか言う場合は合計が大きくなるからそれを買い、買うことによって将来価格があがることも想定して合計価値を修正計算する(畳み込みカーネルが少し変わるのに相当)。

こうすると、結果として、価値の急激な変動をマイルドにするように制御できる可能性がでてくる(逆に加速する可能性も当然ある、制御工学の安定性問題とおなじ)。これがリスクヘッジ

なぜリスクがヘッジ(生垣。障壁ということか)されるのか。

ある取引(売り買い)が将来的に儲けだったか損失だったかはその時点ではわからない。(その時点では少なくとも儲けと両者が思うから取引成立する)。あとからそのものがもっと安くなったり、高くなったりするからだ。通常、取引者の片方が結果として得をしたら(安く買ったものの値段があとで上がったら)相手の取引者は損したことになる。両者の損得を足せば0サムだ。



これはシンプルすぎる議論で、実は両者得、両者損がある。win-winというやつ。しかし、私の不勉強な頭では、この二者以外の外部環境でlossがおこっていてと結局0サムしか思えない。が経済の先生はちがうという。うーむ。エアコンの動作原理とエントロピーの増大(熱力学第二法則)の話ににている。

0サムなのだから(それで正しいとすれば、だが)、ヘッジしたければ損のでた分を得のでた分で埋め合わせればよい。しかし、他者からただでお金をもらうわけにはいかないから(そんなことしたら経済活動にならない)、自分でなんとかするしかない。

どうするか。

そこで未来時間がでてくるのだと思う。未来にはたしかに市場が存在していて、そこには取引をしている経済人がいる。そこには現時点同様のキャッシュのフローとストックがあり、リスクをヘッジしようとしている。違いがあるとすれば、現時点から意思をもって未来の市場にアクセスすることはできるが(これがまた発明なのだが、先物取引というデリバティブのことだ)、逆は無理ということ。

つまり、現在のリスクをヘッジするために、未来に存在するはずの市場のキャッシュフロー・ストックからお金を持ち出して(あるいは持ち込んで)穴を埋めてしまえばよい。無制限にはできないが、利子という、時間を価値に換算するコンバータがあるのだから、一定の限界内でそれは可能なのだ。

めんどくさいことを書いたけど、個人のレベルでいれば、これはローンを組んで家を買っているという話そのものである。未来に手にするはずの収入をつかって現在の価値(生活水準の向上)を手にするのである。

つづく。

その3

最初からローンの話ではじめれば、話は簡単だったのかもしれない。でも、お金の価値と時間の換算の話は、利子とローンより深いと思うので、自分の整理のために蛇足承知で長々書いてみた。

気になるのは、未来の自分(マクロにみて社会全体としては社会から借りているのだが、一人ひとりは自分から借りることがメインだろう)から借りているのは本当にお金だけか?とということだ。

1ヶ月先に休暇があるとして、そこで集中セミナーでも受講して技術を身につける計画だったとする。ところが、友人が来週休暇を前倒しして、海外旅行に出かけようと言い出す。悩んで、それに乗ることにする。うまく取引ができれば(仕事の埋め合わせや帳尻あわせ、お金だけではないさまざまなレベルのネゴ)、それは実行され、海外旅行によって休養や保養や精神修養や見聞・見識の向上になり、非常にのぞましいことになる。この分は1ヶ月先の集中セミナーをあきらめること(ならびに仕事関係の調整で支払われた対価)で埋め合わされた。

個人の中で損得の帳尻があうならば(0または正なら)この取引は成功だ。

しかし、投資と消費は別である。この取引ははたしてトータルの投資を増やしたか。減らしたか。評価は大変難しい。お金で考えるか、精神的満足感で考えるか、時間で考えるか。尺度はひとそれぞれだろう。

しかし。ざっとみて、現代人はその精神的飢餓状態から、消費したくてしたくてしかたがないように見える。自分への投資のつもりでセミナーや集会、トレーニング、健康などにリソースを突っ込んでいる人も多い(それはもちろん精神性の高いレベルの行為だと思う)。

私の問題意識はその投資分を実際に活用する(運転する)「時間」はあるのか? の1点につきる。投資にせよ消費にせよ、ありとあらゆるリソースに付随して「時間」リソースの必要性は絶対だ。物理的に時間が残っていなければ、お金があってもエネルギーがあっても、意欲があっても、どうしようもない。すべての人に時間は1日24時間あまりで、平等である。

現代人には時間が絶対的に足りない。モノはあふれた。情報もあふれた。身の回りだけを見回しても、すべてのものを一人がきっちり制御する限界をすでに超えた。テレビ番組を全部抑えることは不可能で(2chの実況程度でかじるだけ)、コメンテータの意見も15秒、長くても30秒だ。新製品は数週間のオーダーでおしよせるし、新しいサービスやイベントも、どれだけ個人のもつ有限時間リソースを切り取れるかで勝負になっている。

エネルギーエコはこの10年でかなり世の中に浸透したのだが、時間の消費が限界に近づいていることに気づいている人はどのくらいいるのだろうか。人間の経済・精神活動にとって、現時点での最大のボトルネックは、エネルギーや環境ではなくて時間リソースになりつつあると私は思う。



そう思うと、仏教の時間観念はこの状況を予想していたのか、と少々オカルティックに考えてしまって恥ずかしくもなる。しかしプロティスタンティズムと(キリスト教)聖書の時間観念は資本主義とべったりなので、はずれでもないかもしれない。学生のころできなかったマクス・ウェーバーをちゃんと読んでみようか。大塚久雄先生の本探さないと。

つづく。

その4

こと消費するための時間がたりない、ということではすまない。市場取引による価値の交換と0サムという話をしたが、時間のトリックを尺度に取り込むことであたかも価値取引が新たな付加価値を創造しているようにみな思っている(経済学者も実業家ももちろんそう主張する)。それが信用創造の原理で、現在の世界の財政・金融・経済活動はその原理で動いている。たぶんそれは技術的には(数学的には)正しいのだろう。しかし私の感覚ではこれは「生産」ではなく「拡大」であって、0ならば何倍しても0だろうと思う。これは理屈じゃなくて感覚がそういっているので、批判の余地は多いにあるかも。

しかし。真に新しい価値、それまでは物理的に存在しなかったものやサービスの価値、は「生産」されてはじめてクリエイトされるものだろう。食品をつくったり、捕獲したり、鉱物を掘り出したり、加工し、運搬し、宣伝し、使用して自分や顧客に満足をあたえる。これらの生産活動が、すべての価値の拡大再生産の基礎だと思う。

もし、生産に必要なリソースが不足したり奪われれば、深刻だ。それが環境問題であり、エネルギー問題だ。この2つは経済問題だ。でももうひとつ、大事なリソースをがあるじゃないの?

時間問題。

われわれに時間はあるのか。機械や化学物質、情報デバイスの驚異的な進化の普及で、われわれの脳と目耳口手足は、果てしもなく伸びた。web2.0といって久しいが、まだまだどこまで伸びていくのか、まったく見当もつかない。人の精神性のキャパシティは限界がどこにあるのかよくわからないほどだ。

でも時間の限界は来たと思う。これ以上人間の思考スピードが速くならない限り、人間自身の精神活動(それはつまり経済活動に直結する)は時間リソースの有限性に縛られて頭うちになる。



こういうと差別主義的でおこられるとおもうのだけど、ある種の天才的な思考レベルの人たちはスピードが著しく早い。一般人からみると009の加速装置状態か仮面ライダーカブトのクロックアップ状態に相当していて、こいつらはまだまだ生産性をあげていける。能力とはきっとスピード(馬力といってもいい)なのだ。信じられないことにそういう人たちは割合からいうときわめて少数だが、世界人口から考えると相当人数存在していて、ネットの力で相互作用しあってパワーをあげている。まったくおそろしいほどだ。私などは逆立ちしたってパソコン少年以下である。

経済の総量というのはマスである。一部の人が天才的スピードで精神活動の量と質を増やしていても、総量からすれば一般の人が束になって活動している量のまえでは誤差である。一般の人の経済活動が、時間リソースの枯渇によって律速されれば、そこでマスの伸びは間違いなく止まる。

おもいあたるふしはないか。列車の運行スケジュールのマージンと安全性を削って時間を捻出したあげくの大事故、テレビ番組の質の低下とジャーナリズムの単なるコピペマシン化。医療現場のリソース枯渇と疲弊。教育現場におけるマスプロ化とじっくり考えることの放棄、安易な模範解答への執着。過度の最適化とマニュアル化による硬直化、前例主義、ことなかれ隠蔽主義、異常なインフラの高コスト体質。

みな時間がないからじゃないのか? かならずしも担当している人間の精神的レベルが低下しただけではないと思うのだ。たしかに全体の(とくに日本人について)知性が後退しているのを私は強く感じている。しかし、それは二次的な結果であって、より本質的な原因を突き詰めれば、「時間が足りない」、に帰着するのではないか、と思うのだ。

つづく。

その5

個人レベルでの時間枯渇問題は、かならずしも個々人の責めに帰すことができないように思う。経済的活動自体が、消費者に対して、使え使え消費せよ、と強迫しているからだ。使えば幸せになれる、というスローガンが消費社会の根本にあって、それはある部分真実なのだが、その精神欲求があるからこそ経済成長があって、社会が動いている。これをとめることはつまり不況であって、成長せずに動かない資本主義の宿命といってもいい。

しかし、未来から時間を借り出してまで消費しつくすことにどういう意義があるのか、そろそろ考えないといけないのではないのか。生産活動に費やす時間もないのほどに消費すべきコンテンツがありすぎて、必至でそれを消費し続けているのはやはり病的といっていい。

「時間エコ」という概念を考えたい。つまりいかに時間を消費せずに精神的活動の高揚感を得るか、という効率概念。同じ精神的活動レベルを得るのにかかる時間が短ければ短いほど効率がよい。そういうコンテンツを選択するがよりスマートだ、という観念。

そしてあるだけの時間を消費しつくすのではなく、余裕をどれくらい保持できるかが、精神的豊かさを計る基準になる。これをどう一般に認知させるか、私も計る基準や方法はよくわからない。が、エネルギーや環境負荷でやっているのだから(それでも目に見えるところだけでかなりいびつ。プリウスは石油や排ガスではエコかもしれないが、部品加工から製造や廃棄まで含めたら本当に環境負荷が低いか?)、可能だと思うのだ。

とにかく満足感の充足を目指して時間を貪食しつづける、それをあおる経済活動は忌避すべきだ。強迫的に時間消費に狂奔する、いかに多量のコンテンツを消費したかを満足の基準にする、これをなんとかしないと、いずれ未来はない。生産していないからだ。

そればかりか、未来に存在すべき時間リソースを現在に借り出して価値変換して消費しているのだ。赤字国債やら年金破綻やら借金の話は多くでるが、時間の借金のほうがずっと深刻だ。いまでも時間はたりないのに。社会のもつ時間総量は、個人の持つ24時間xのべ人数。

人は減っている。未来における人が減っている。それが少子化だ。

現在の人は時間借金によって未来の時間を消費することで、未来に存在するべき人(子供たち)が消えているといってもいい。子供を作るかどうかは個人の選択と自由といえば、たしかにそのとおりで、ほしくてももてない事情がさまざまにあることは承知しているし、これまた個人の責めに帰することはできない。だから政治や社会の罪はより深いのだが、マクロな観念としては将来の子供たちの存在と時間を奪って現在の経済が活動している、と極論していいと私は思っている。これが少子化の本当の怖さだろう。

未来における一人の人のもつ時間もどんどん借り出されて減っている。現在の人が未来の人(子供たち)に投資してくれていないからだ。たとえば、医療とか、交通とか、食料とか、エネルギーとか、教育とか、文化とか、安全安心とか、そういう社会インフラを維持し引き継ぐことに現に失敗しつづけているからだ。これは程度を悪化させながら進行中だ。

未来の人は引継ぎがないので、ほとんどを自給自足しないといけないから、現在の人のもつ正味24時間分を本来のことに使えない。少ない人数で自分たちの社会を維持するべく必至に活動しなくてはならない。

もうこれはミヒャエル・エンデのモモの世界じゃないか。時間泥棒といってもいい。

つづく。

その6

こう考えてくると、われわれは子供たちに何が残せるのか、何を引き継いでいけるのか、それが社会活動の根幹じゃないのか、という気がしてくる。引き継げるものならば、単なる消費にはならないからだ。ものを創る、価値を生む、ということは、次世代に引き継ぐことと完全に等価なんじゃないのか。物質的なものもあるだろうし、文化もあるだろうし、情報もあるだろう。引き継げること、伝達することが、結果として将来の社会に時間を与えて、さらにその先の世代に別の新しいものを作って引き継げるようにする。

そのためには、われわれは自分たちの持つ24時間で満足すべきなのだ。未来から時間を奪って活動しちゃいけない。むしろ自分の24時間からどれだけ切り取って未来の世代に手渡せるかが、鍵なんだと思う。自分たちだって先輩や親やその上の世代から連綿と貴重な時間を贈られてきたのだと思う。この流れをとめちゃあいけない。

やはりコミュニケーション、とくに世代間コミュニケーションが人間の精神活動の根幹であり根源なのだろう。現代のテクノロジーがややもするとそれを阻害する方向へいきかねないのが気になるが、それでも捨てたものでもないと思う。なぜなら、2ちゃんねるにせよ、mixiにせよ、ニコニコにせよ、twitterにせよ、結局はコミュニケーションを志向しているからだ。たんにコンテンツを消費したいだけなら、従来型のウェブやRSS subscribeでいいからだ。人がそれに満足せずに、より深いコミュニケーションを志向するなら、たしかにそこに未来はある。

一日のなかで、自分が使った時間と、未来へ贈った時間に少しは意識を持ちながら暮らしてみるもいいと思う。個人のレベルとしてはそうするしかないのだ。

問題はどうやってこれをマクロな政策として社会機能化するかだ。欧米にはこれがローマ以来の文化として存在するのだ(それこそ過去から贈られた遺産だ)。それが人間集団としての彼らの強靭さだとも思う。日本人にはまだ学ばねばならないことがある。時間は切迫しているけれども。

The past should give us hope. (過去が希望をくれる) 

出典はもちろん「アレ」ですが、いい言葉だと思う。