gavangavanの日記

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ロボット演劇「銀河鉄道の夜」と人工知能のドグマ


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というわけでいってきました。グランフロント大阪ナレッジシアターこけら落とし公演「銀河鉄道の夜ロボット演劇?5/2-12に梅田のナレッジシアターで銀河鉄道の夜主演。 - gavangavanの日記。大変著名な作品でもありお芝居やアニメにもなってもいるので、お芝居の筋はもうみなさんよくご存知だとおもいますので省略したいと思います。落日が12日(日)ということでまだまだ公演はつづいておりますが、ある程度ネタバレも含みながら感想を書いてみたいと思います。

ということで引き続き読んでもOK、という方は以下をどうぞ。

役どころ

f:id:gavangavan:20130508002407j:plain:right,w350銀河鉄道の夜といえば主人公はもちろんジョバンニ少年ですが、早希ちゃんが演じたのはジョバンニではなく、

  • ジョバンニ・カムパネルラの学校の先生
  • 星祭りにいく少年たち
  • 白鳥とりの狩人(「ごんすー」という語尾でしゃべり、網をふりまわす)
  • サザンクロスで下車したりんごをくれた乗客

でした。結構な長回しのセリフも多数あり、そこらへんをきっちり演じてくるあたりがやはり記憶力には定評のある早希ちゃんだなあとおもいます。以前のお芝居のときも同様に感じたところですマジスペ感想その他っ。 - gavangavanの日記

早希ちゃんはとくに最初のシーンの学校の先生役のところで、ロボットとからむ場面がいくつかありました。私が見に行った回はロボットの調子もよかったようで、ロボットのセリフが出るのに若干間があったケースが何回かあった以外は特にトラブルもなくスムースにいったようです。個人的にはせっかくなのでロボットのセリフがでない場合に周りの演者がいかにフォローするか、というところも見てみたかった気がしますがw、それは演者からすると勘弁してくれ、というところかもしれません。

4役演じるにあたっては、甲高い声や低めの女性の声、さらにシンジのモノマネ時のような少年声など、多彩な声を使い分けて演じるなど、声にこそ特徴のあるこの御方にはうってつけの役だったとおもいます。おしむらくは主役を演じたわけではないので、ストーリー全体に沿って感情移入するような対象としての役はあまりなかった(後述のようにサザンクロスで降りた乗客についてはかなり深読みできるセリフをいっていますが)ことでしょう。

ロボット演劇の意味するところ

このお芝居で特徴的なのは、カムパネルラ役をロボットのロボビーが演じていることです。最初ロボットが人間を演じているということなのか、どういう体で見ていけばいいのか少し戸惑ったのですが、どうやら

ロボットの役をロボット自身が演じている

ということが途中で分かってきました。アフタートークで演出の平田オリザ氏も会場からの質問に答えて説明していたのですが、ここでのカムパネルラは機械工学のえらい博士であるカムパネルラの父が作った、人間と同等の知性や感情をもつロボットであり、ジョバンニやザネリらとともに学校に通って授業を受けている、という設定でした。カムパネルラはロボットですから、天文学や物理学の知識なども相当なものであり、先生の問う質問にも事実上ほとんどの答を知っているのです。しかし、親友であるジョバンニ(彼は家計を支えるために夜も働いていてそのため教室ではよく眠ってしまう)が先生の質問に答えられないのを見て、自分も答を知りつつ「わかりません」と答えてジョバンニをかばうくらい、高い知性を備えています。

単純に人間がロボットに置き換わっただけであれば、演出論としてのロボット配役にはあまり意義がないのではないかとも思えるのですが、実際のお芝居の中では原作にはないいろいろと意味深なセリフが散りばめられていて、そのセリフひとつひとつが

ロボット(の知性)とはなんなのか

という問を発していて、でもその裏を返してみると、

人間(の知性)とはなんなのか

というむしろ双対的な問のほうが我々に投げかけられているのではないかという疑念がそこはかとなく湧いてくるという、そんな不思議な空間がホールに広がっていました。


カムパネルラ「(宇宙は膨張していて星々の間の距離は広がっているから)少しずつ離れていっている僕らは、果たしてここにいっしょにいるのかそうでないのか」
早希ちゃん演じる銀河鉄道の乗客「真空だからといって、そこに何もないということにはならないのではないか」

あたりのセリフがそうなのですが(終演後に売っていた台本を買ってないので不正確だとおもいますが)、芝居に入り込んで見ている観客の視点を一歩外枠に飛び出して全体を俯瞰してみてみれば、ロボット自体は機械ですから、平田氏も解説していたように、あるタイミングで操作技師がセリフのタイミングや動作の指示をして操縦しているわけです。人間の演者のようになにかそこに意志があって自律的に行動しているわけではない。解説にもありましたが舞台上の移動については舞台隅にレーザレンジセンサー(距離を測るセンサ)がおいてあって、ロボットの位置を計測した結果を通信でロボット自身に送ることで自分の位置を知り、どっちにあとどのくらい動けば良いかを検知します。しかしこれとて予め組み込まれたプログラムコードによってその動作の全容は事前に決定していて、なにか予想外の動きをすることはトラブルを除いてはありえないわけです(見に行った日の午前の公演ではそのトラブルが多発して苦労したとのことですが、それがなにかロボットの自律性を示唆しているとは言い難いのは同意していただけるとおもいます)。

では、そのような事前のプログラムや外部からの指示に基づく表層的な行動の発現が、そこに何もないことを含意するのか否か、そういうメタな疑問がこのお芝居の中で提示されているのだ、とみることもできると思います。つまり知性なり知能なり人格なりの所在が、表層的で外面的なレスポンスの集合としての行動の他に、いずこかに内在するものなのかどうか、という問であります。人間やプログラムの指示通りに表層のカムパネルラを演じるロボットの内側には何もないのだとすれば、我々はロボットの演劇に何を見て何を感じるのか、無いものをみる能力が観客の側に備わっているからなのか、そうだとしても見る側がなにかの存在をそこに感じることができるならば、その実在を認めていけない理由はなんなのか。

平田氏のお芝居を他に見たことがないのであくまでも想像の範疇ではあるのですが、いろいろなメディアに掲載された彼のインタビューをみてみると、彼の演出手法は

俳優の外面的な一挙手一投足を精密にコントロールする

というところにあるようで(私の読み違いなら申し訳ないのですが)、ある意味俳優を表現者としてのロボットとして扱っている、という側面もあるように思われます。それはいみじくも平田氏自身がこれまたアフタートークで述べていたエピソードにも現れていると思います。


平田「うちの劇団員は、この演出家(平田氏)は俳優をロボット扱いしてるのではないか、と薄々気付いてたようなのだけれども、実際にロボットに対する演技指示を見ていると、自分たちに対する演出指示と何も変わらないことがわかってショックをうけていたらしい」

まあ、これはある意味冗談めかして述べられた偽悪趣味的な発言ともとれますが、たぶん8割くらいは本音なのかもとも思います。私などに言わせれば、このあたりの演出方針のあり方こそが、ロボット工学の研究者である石黒浩阪大教授とのコラボとしてロボット演劇を成立させたのだと思えます。ロボット工学や人工知能の研究者にとっては、前段の「知性とはなにか」「人格とはなにか」という問から逃げることは叶わないわけで、旧来の工学としてはさまざまな機能的部品からいかに構成論的に知性なり人格を定義付けできるか、というところがいってみればセントラルドグマとも言えるわけです。しかるに先の問

真空だからといって、そこに何もないということにはならないのでは

という言説は、このドグマに真っ向から反駁していることにもなります。つまり、外面的・表層的行動のみの連なりこそが知性なり人格なるもののコア(いや表層なのでむしろシェルか)であって、その内側には本来なにものも存在しない、しかし全体としての知性・人格は確かにそこにあるといえる、ということかもしれないからです。そのようなメタな問をロボットにロボットを演じさせる演劇の形で提示しようとしているのかもしれません。石黒先生の超リアリスティックアンドロイドも「見かけ」という表層をとことん突き詰めていくアプローチであって、まさしくこのラインに沿っているわけですし。ロボット演劇のほうは「振る舞い」や「シチュエーション」や「対話」という表層を突き詰める対照的な方向性といえます。

すこし先走った書き方をしたかもしれませんが、このお芝居を見ている中でロボットの研究者でもある私が一番に感じたことはまさに上述のようなことで、そう思って見ていると登場人物の振る舞いやセリフなどもその筋に沿って並んでいるように見えてきますし、アフタートークでの平田氏の解説は質疑応答までもがそのラインに乗っかっているように思えてならないわけです。芝居のストーリーを見ていながら、芝居を演じているロボット自身とその操作を担っている裏方やプログラムまでが重層的に折り重なって見えてくる、そしてそれにこそどうやら意味があるらしいという、ちょっとおもしろい舞台になったなあと感じました。

次の日曜日が最終日

こけら落とし公演は来週日曜日で千秋楽。まだあと10回ほど公演が残っています。公演回によってまちまちのようですが当日券も出ており、平日ならばふらりといっても見れる場合もありそうです。時間があればもう一回、とくに早希ちゃんの出るBチームではなくAチームの公演も観て比較してみたいなあとも思いますが私はちょっと難しそうです。

ロボット演劇はもう5年ほど海外で公演を続けているそうで、このあとも別のシナリオでヨーロッパ(フランス他)やアジアで多数公演が控えているとのことです。機会があればまた見てみたいなあと思いました。

【追記:5/8】

芝居の冒頭では天の川すなわち乳の流れだ(ミルキーウェイ)、という話がでてきていました。銀河鉄道の夜の文脈では、天の川は三途の川のメタファーなのですよね。もちろんカムパネルラが飛び込んだ川の暗喩でもあるわけですが、死のメタファーが非生命のロボットに射影されているところも考えだすといろいろと重苦しい感情が湧き上がります。そもそも銀河鉄道がサザンクロスを経由して天上(ヴァルハラ)へと至る路線であり、銀河鉄道999でメーテルが黒い喪服を着ているのもここからの借用なのでしょう。999は人間である鉄郎が機械の体を手に入れるために乗り込みますが、このロボット演劇ではロボットのカムパネルラが人しての存在性=人の心を得られるかどうかが暗黙のテーマになっている点が実に対照的だといえましょう。