gavangavanの日記

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まどか☆マギカをついに見たーその3ー

さやか&杏子編です。例によってまどマギ新編のネタバレ全開ですので要注意です。

さやか

さやかについていうと、1話をみた時点ですでに死相が出ていると思った。とくに正確な予備知識があったわけではないのだけど、途中でメインキャラが退場するとすればこの子に違いないという直感はたしかにあった。なぜかといえば主人公の周りにいる典型的巻き込まれキャラであり、かつ主人公より前に出るからだ(1話の消火器噴射が典型。剣より消火器のほうが似合ってるとかほざいてたらほんとに新編でも消火器投げ込んできたのでさすがと思った←)。彼女には最初から逃げ場がない。この手の立ち位置は非常に危険だ。街角で江戸川コナン一行に出会うより危険だとおもう。

冗談はさておき。さやかはまどかと対照的にどこまでも視野が狭い。狭窄といっていい。ただしその視野の範囲内では透徹するほどに理想を目指そうとする。それだけに前に前にと進むしかない。常に後ろから殴られて面食らうタイプだろう(人はそれをイノシシという)。実際、仁美に上条に対する恋のライバル宣言をされたのはさやかにとっては晴天の霹靂だったわけで。描写はないけれどおそらくまどかは感づいていたかもしれない(それにしても仁美はいつから上条に心を寄せていたのか)。

さやかからすればまどかを守っているのは自分だという自負があるはずだが、実のところ見守っているのはむしろまどかのほうだ(この反転した関係はまどか母&和子先生にもそのままあてはまる)。3話で上条の入院する病院を訪問したときもまどかが下で待っていたし、そもそも1話でまどかがキュゥべえの声を聞いて走りだしたのも上条に渡すCDを物色しているのに付き合っていた時だ。さやかが走るときにはいつもまどかが影に日向に支えていたはずだ。5話で魔女パトロールに出ようとする際にまどかが自分も連れて行ってほしいと願い出るシーン、さやか自身も「まどかがいるとおもえば無茶もできないからおのずと行動が慎重になるはずだ」と非常に的確に自己診断しているほど、本人にもそれがよくわかっていたのだ。それが6話のソウルジェム放り投げ事件で湧き上がった魔法少女システムへの不信とそこからくるひどい精神的視野狭窄のために、自らにとっての安全装置ともいえるまどかの存在意義を見失ってしまったことが、結果として彼女の進む道を閉ざすことになった。

上条の左手を治すことと引き換えに魔法少女になったさやかだが、やはりそのきっかけも視野の狭さゆえだ。クラシックのCDをせっせと病室に運ぶのも上条の苦悩を察することができないから。もっとも上条がああやってさやかに当たり散らすのは彼女を心底身近に感じているからこそなのだが、さやかにはそれがわからない。楽器が弾けなくなることでこの世の終わりを味わった彼が、腕が治ったならそれこそ二度と悔いの残らないように演奏に没頭することになるのはもう必然であって、さやかに連絡することもなく退院してしまう彼は彼女からしてみればまるで羽が生えて遠くへ飛び去ってしまうかのように思えたとしてもしかたない。

さやかはどこまでも感情と執着の人だ。考えるより先に気持ちが先行する(実にマミと対照的である)。第一印象で思い込んでしまうと修正ができない。出会いの仕方から対立することになった杏子との関係においても、杏子が心をひらいて歩み寄っているのに感情がそれを許さない。優秀なセンサーでありバランサーであるまどかが間に入っていれば、おそらくこの二人は悲劇的な対立を回避できたかもしれない。それが不可能に終わることは5話における最初の衝突時に杏子の魔法のフェンスでまどかが疎外されていたことに暗示されている。人のもつ業というか、すべてに清廉ではいられないのが人といういきものなのだという、大人になるまでのどこかで人がいずれ悟るあたりまえの事実。それを受け入れることのできる余裕を彼女が持てるまで、もしも運命の輪がその回転を待ってくれたなら、こんな悲劇はなかっただろうにと悔いるほかない。

随分と酷な評価が続いてしまった。大人からみればさやかはいかにも子供っぽく未熟さが目立つけれども、中学生としては一番リアルな等身大のキャラクターといえるだろう。その幼さからの背伸びゆえに一直線の正義感に基づいて行動するわけで、その純粋さがいじましくもある。それゆえにキュゥべえの根性悪がより際立つわけだが(なにせマミの死によっていったんまどかとさやかのもとから去ろうとするときにも「いっしょにいて楽しかったよ、まどか」と、さやかには一瞥もくれていないあたり、杏子とさやかの対消滅への誘導にもみられるキュゥべえの狡猾さがすでにこの時点でにじみ出ている)、希望から絶望への相転移、というならこれほどにうってつけの性格はないわけで、他の時間軸においても魔女化の運命を避けられないのはそれゆえだろうか。思うに当初のループでは彼女は契約を結ぶ路線には乗っていなかったのではないか。ほむらの時間遡行にともなって収斂するまどか周辺の因果の糸が、彼女の近くにいるさやかをも絡めとったということかもしれない。そういう意味では1話の巻き込まれシチュエーションは実は時間遡行全体の流れを象徴的に描写しているのだともとれる。それを解きほぐしてさやかの存在を復元するには魔女化の宿命をあまりにも繰り返し過ぎたのかもしれない。彼女の執着を解放するにはやはりTV版ラストの円環の理による救済しかなかった。

もっとも子供っぽいといえるさやかと、時間遡行の果てに閉じた時間を繰り返し体験することになったほむらの間にはある種のジェネレーションギャップが存在する。さやかと杏子の関係が水平方向の対立とすれば、さやかとほむらのは鉛直方向のそれである。なんとしてもまどかをワルプルギスの夜後に生存へと導きたいほむらとしては、ループを繰り返すごとにまどか魔女化への一里塚として登場してしまうさやかの存在はかなり厄介だったに違いない。そんな彼女が新編においてほむらを迎えに円環の理の水先案内人として登場したのはやや意外な感じだった。TV版ラストで意に反して円環の理から隔離されてしまったほむらが、いまや円環まどかと同一視される立場で今回の「魔女の結界」事件の全容を把握した超越的存在として現れたさやかに対して、はじめて後れを取ったことになるわけで、この二人の立場の逆転現象は新編におけるほむらの「視野狭窄」と「執着」を暗に描写するための道具立てのように思えてならない。

杏子

杏さやと称されるほどに、さやかとの関係でフィーチャーされることの多い佐倉杏子。最初の登場時にはまさかああいうキャラへと変貌(まさにこう表現するのがふさわしい)を遂げるとは思わなかった。殴りあうことで友情を確立するというのはジャンプ系少年漫画の王道であるが、杏子はその意味で少年漫画キャラである。登場した時点ですでに力を極めた存在であり、メインキャラたちの上にいる。ここでTV版OPの映像を思い出して欲しいのだが、まどかを中心にほとんどの人物たちは水平位置にいるのに対し、杏子は上から見下ろしている。高圧的にプレッシャーをかけてくる強者、という意味あいもあるが、後から明らかになったように、その描写のいわんとするところ彼女は「降りてくる」キャラなのだ。水平位置に降りてきて並んでくれる人物。肩を並べてともに歩いてくれる人物だ(対照的に下から見上げている人物がOPにひとりだけいる。キャラの静的な性格に加えて動いていく方向性までがはじめからきっちり定義されていることの証左で舌を巻く他ない)。

その偽悪趣味(彼女の語る過去を知ってから見れば無理もないことではある)のために誤解されやすく敬遠されることが多いのだろうが、本人もそれはそれで手間が省けて丁度良いと思っているフシもある。本質的に支えを欲している人物(つまりマミとほむら)とは逆に、杏子は支えてあげようと自らが手を差し伸べる人だ。つまりまどかと同じタイプである(本人は気づいていまいが、教祖であった父親の影響かもしれない)。まどかにとって杏子のとった行動、すなわち支えを拒絶する人物=さやかとの刺し違え(本質的に力づくで寄り添う行為だ)は、そのあとのまどかの進むべき道を明確に指し示すものだ。支えを必要としながらそれを拒絶する人物=ほむらをどうしたら救えるのか。杏子の消滅がこの時間軸でのまどかの決意にあたえた影響は計り知れない。杏子の捨て身の行動がなければアルティメットまどかも円環の理も現出しないのである。ほむら自身による時間遡行の努力は結局まどかの魔法少女化を阻止できなかった。万策つきてそのソウルジェムが濁り切ろうとする刹那に彼女の手をとるまどかを後押ししたのはほかでもない杏子だ。まどか母は止めようとし、マミはその道はあまりに過酷だと忠告し、杏子は「いんじゃねえの?やれるもんならやってみなよ。逃げないって決めたんならあとはもうつっぱしるしかないんだからさ」とやはり背中を押すのだ。ストーリーの論理構造全体を眺めた時の物語のキーストーンは実に杏子だったと思う(杏子推し喜べ←)。

円環の理による宇宙再編の後、さやかとの別れは苦いものになった。「ばかやろう、やっと友達になれたのに」と悔しがる杏子はほんとうにいいやつだ。新編で本来はありえないはずの再会を果たすことになった杏子とさやかのやりとりは、1回めに見た時にはスルーだったのだけど2回めにみた時は実に刺さった。さやかがすっかり解脱してしまっていることで逆説的に、この二人が現実の世界で友情を温めることは二度とないのだ、という実感が襲ってきていたたまれなくなったのだ(デビルほむらによってぶち壊しになったが)。それでもこの二人が互いの背中を預けて戦う姿は、本当はこうなりたかったんだよね、という答えを必要としない問を発したくなる。

新編では杏子とほむらという、TV版の後半でも見られたタッグの再現がある。ほむらは杏子にまどかの像を無意識に重ねているのではないかとも思う。新編であの見滝原がなにかおかしいと気づいたほむらが最初に相談したのが杏子であったのは実に必然でこれ以外の選択肢は考えられない(視野の狭隘なさやかに本質が見えると期待する方がおかしいし、保守派のマミには世界そのものを疑うなど所詮無理ゲーである)。ラーメンのおごりで手を打とうと相変わらず偽悪的に答える杏子だが、ここでもやはりみずから降りてきて横に並んでくれるのである。杏子の本質は理屈ではなく直観力だ。だから論理的な謎解きは絶対無理だが(それはほむらの役割である)、面倒なプロセスを全部飛び越してなにが正しい筋なのかを瞬時に見抜いてしまう。ほむらは潜在意識の中で杏子にすべてを見透かしてほしかったのかもしれない。

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