gavangavanの日記

書きたいことを書いております。

東浩紀著「弱いつながり」を読んで。

ずいぶん更新もしなくなって久しいわけですが、今後はおそらく単発的に語りたくなったときに特定のテーマで語る感じでゆるく進んでいくことになろうかと思います。いやもともとそういう趣旨のブログであったわけですが途中で路線がずれまくってここに至ったという話もあり、もちろんメインコンテンツになってしまった路線も折にふれて書いていくことにはなるのでしょう。

さて東浩紀さんは私もツイッターでフォローしている著名人の一人ですが、かねてよりシンパシーをもってそのツイを読ませてもらっています。彼に限らず著名人は、少しでも尖った言動をネット上で展開するとどこからわいてくるのかわからない人たちのスクラムで、やれAといえばBもあるではないか、Aであることの根拠はなにか示せ、そもそも思慮がたりないからそういう言辞が出てくる、はてにはRTがうざいからやめてくれ、に至るまで、どんな資格を任じてそこまで緊密に迫ることができるのかはためには理解できないレベルの炎上騒動がおきます。東さんにしても3.11の震災以来(それ以前からですが)のツイッタにおける言辞(そもそもそれほど責任を背負い込まねばならないようなメディアではないはずなのですが)に対しての罵詈雑言によくも耐えておられるなあ(いや耐え切れてないのかもしれない)とか思いつつ、しかしそのほとんどの発言(感想というレベルのものも含めて)には自分自身の共感するところ最も深い言論人の一人であるなということがその都度強化されてきたこの数年であった気がします。

私に言わせれば、つまるところ彼のスタンスは「地に足がついている」という一点につきます。よくよく読めば(いやそんなに注意深く読まなくても)生活感のある一人の人間(家族や仲間も含めて)の常識的な感覚を延長していけば「そうだよね」と共感できる、そういう立場からまずはすれることのない安心感がある。そりゃ立場の違う人達からすれば敵対的に映ることもあるだろうけど、生きていればだれとも敵対せずに生涯全うできようはずもないことからすれば、とくに彼が「より敵対的」であるわけがなく、むしろ「無理をしない」、つながれるところでつながれる人どうしが連携すればいいのではないのか、つながれない人に対してことさら攻撃的である必要もないだろう、ということを彼の一連のツイートからは感じ取っています。

だからといって逆に孤高であれという仙人的な立場でもなく、何かをして生きていくには仲間もほしいし必要とするという、よくよく見ていけば実に人間的で無理のない立場を主張しているように思われます。もちろんあらゆる意味で人間的ですから、多少無気になってみたりすねてみたり弱音を吐いたりと、そこだけをみれば大人げないというツッコミも多く出ますが(そらツッコミやすいだろう)、自分自身に照らしてみれば、そういうところがあるほうが自然でいかにも人間らしく、むしろ信頼出来るのではないかと思うわけです。私が彼に対して寄せる信頼感は決して「信者」的な熱狂的それではなく、ゆるいファンというくらいのものです。しかし明白です。

新著「弱いつながり」では、そういう「ほどよい接地感」がよりいっそう際立ってる感じがします。観念の世界ではなく生活感のある地上の世界。そういう現実への接地感が必要なのだというメッセージなのだと今回の新著を読みました。ロボットや人工知能の研究者にとってはこの20年来「身体性」という言葉で語られる観念に翻訳して捉える事もできとても馴染み深い。そしてそういう接地感は、むしろ一箇所への密着ではなくまだ触れたことのない別の現実への接触によって維持できるのだという逆理的な主張も、私自身が彼の「ゆるいファン」であるという立場に照らしてみても自分には実感にあう感覚なのです。

ひとつ思うのは、受信側がファンとして発信者にゆるくつながることは容易だとしても(実際は一方的「密着」が生じてスクラムになることも多いわけですが)、彼のような発信側が不特定の見知らぬ受信者とどうゆるくつながれるのか、というパラダイムについてはまだよい解答が見つかっていないのかもしれません。なにせ発信側からは顔が見えない相手なのですから、ここに欠けている現実的な接地感がもどかしさの原因ではないのかと思ったりもします。

本著の終わりのほうでは、直近の結果だけを見て行動を最適化しすぎるな、というメッセージが出てきます。これまた自分にはまったく実感だったりします。すぐとなりと自分を比較して少しでも違いがあると損をしたと考え、とにかく損しないように行動を規定する、そういう狭い範囲への近視眼的のめり込みがもたらす局所解への落ち込みが個人のレベルでも社会のレベルでも大きな病巣になっていると思うからです。

短く読みやすいエッセイなのでおすすめします。