gavangavanの日記

書きたいことを書いております。

ロケみつと制服と桜 稲垣早希(夏コミ改訂版)

夏コミ早希ファン本を出すからね、という我らがさこん隊長の要請により、いつものごとくちょい長い文章を書いて投稿しまして、無事本にはなったのですが製本数十数部(手製本ですから)ということで、おそらく部外者でこれを手にとって読まれた方はほとんどいないはずですね。

冬コミには完全版を、というお話もあったんですがまあ予定通り(←失礼極まりない)遅れているので、年内にあげてしまえということで自ブログにあげちゃうことにしました。真冬の大晦日に真夏モードで書かれた文章読まされる季節感の崩壊っぷりはご容赦いただくとして、今年ほぼ唯一ともいうべき本ブログのアクティビティを記録しておこうという趣旨でもございます。

夏コミ本の稿からちまちまと追加修正をしているので若干内容が増えております。そもそもこの原稿は以前本ブログに書いた記事内容に大幅に追記する形で構成された改訂稿でして、その意味ではいまも追加されつつあるのですが、現時点の確定稿ということでなにとぞよろしく。

それではみなさまよいお年を。

ロケみつと制服と桜 稲垣早希

5年8ヶ月続いた桜 稲垣早希ロケみつブログ旅が終了して1年半が過ぎようとしている。かつてあれだけの間、地震のあとしばらくの期間を除いて毎日、本人によって更新されつづけた旅ブログ。記事を逐一確認する日課から遠ざかって久しい現在、ブログ旅のことを考えるのはまるで、初秋のころになって真夏の蒸せ返るような日々を思い返すかのようで、懐かしくも口の中が少し苦くなるような、視界が陽炎で歪んで見えるあの焦燥感が真っ先に思い起こされるのだ。あの青い制服の背中に乗った大きなピンクのリュックが遠くでゆらゆらと揺れている、そんな光景とともに。

彼女が学校の制服を着ているのはもちろんエヴァンゲリオンのアスカを(当初版権無断で)演じているからだが、考えてみればこれは別の意味でも必然なのだ。桜 稲垣早希ロケみつブログ旅は、まだ無名の駆け出しだった女ものまね芸人が、いじめとほとんど区別がつかない過酷な条件で旅をさせられながらも、世の厳しさの中に人の暖かさや思いやりを見出して少しずつ成長していく、その物語性ゆえに多くの視聴者によって時に熱烈に支持された。アスカだけれどアスカじゃない。生身の人間・稲垣早希の成長物語だからこそ、みな深夜のテレビ画面に釘付けになったのだ。あの制服姿は形式的にはエヴァからの借り物だとしても、虚構としての番組と演者のリアルとのクロスオーバーを実に象徴的に体現している表象=アイコンなのだ。制服とは「学ぶこと」が「生活」と同一視されるための表象である。成長途上のこの少女(すでに二十代だが)はいつも学んでいる。失敗と挫折と克服を繰り返し行きつ戻りつしながら少しずつ前に進んでいく。旅に同行して自らカメラを回しているため常に声だけで登場する番組きっての悪役=親玉ディレクターは、この番組を構成・演出するにあたって相当の計算をしただろうが(曰く関西縦断の経ヶ岬ゴールシーンから逆算して演出したらしい)、アスカのコスプレが制服であることは最大限意識していただろう。もちろん稲垣はロケみつ以前からアスカのものまねとエヴァ漫才で一部お笑いウォッチャーから注目されていた存在なわけで、この新人芸人としての稲垣自身をいわば「エヴァごと引用」したのがブログ旅なのだから、エヴァと稲垣とブログ旅は二重にクロスオーバーしていることになる。

番組がエヴァから借りた(エヴァ的デザインモチーフ以外の)アイコンはもう一つある。「真夏」だ。エヴァの世界観ではセカンドインパクト後の日本は四季がなくなり、永遠に夏が続くようになった。それゆえブログ旅の第一章「関西縦断」が夏に始まったのは偶然ではない。旅がその条件設定の苛酷さゆえに思ったより長引いたため、ゴールしたころにはすっかり冬になってしまい、夏のモチーフは全体を通してやや後退した感がある(それでも後年のしまなみ海道編など夏の過酷な暑さは印象深いシーンとなって記憶に刻まれているが)。「関西」とこれに続く「四国一周」の前半では、寒さ対策にと旅の資金で買った白いロングのダウンジャケットが水色の制服姿をすっぽりと覆い隠してしまうが、翌年の「西日本横断」の冬場ではヒョウ柄パーカーとピンクのショートジャケットを着用、スカートの部分が露出するようになったのは、今になってみれば意図的な演出だったのかもしれない。番組上最も不可欠なモチーフが、エヴァの設定でもロゴでもフォントでもカラーデザインでもなく、主人公の纏う制服であった証左だろう。やはりあの制服こそが、芸人・桜 稲垣早希自身の成長物語をまぎれもなく象徴していたのだ。

2013年度後期MBS制作の深夜アニメに「キルラキル」という作品がある。TRIGGER制作のケレン味の強い作風に根強いファンも多い(私もその1人だ)作品だが、その主人公・纏流子と桜 稲垣早希には大きな共通項がある。二人ともその物語上極めてシンボリックな「制服」を着ていることだ。奇しくもキルラキルはMBSではロケみつ最終回(フライデーではなく無印)と同じ日にその最終回O.A.を迎えている。このふたつの制服が物語の終着地点でどう扱われたのか、比較してみるとなんとも感慨深いのである。流子の着ている意志を持った制服「鮮血」は最終回のクライマックスで流子を守りながら燃え尽きるその刹那、別れを受け入れられない流子にこういって諭すのだ。

鮮血「セーラー服とは、卒業するものだ」(CV:関俊彦)

エピソードのラストでは、流子はじめ制服を着ていた他のキャラクターたちも、これから新しく始まる自分たちの希望と未来を象徴するようにそれぞれに私服で登場し、去っていく。いわれてみて気がつくのだが、たしかに(学校の)制服とは人生の特定の一時期にだけ着るのであって、いずれ脱ぎ去るものだ。あとから思い出して袖を通そうとしても、現在の身の丈にはあわないことに愕然とする。それが成長の証なのだとまるで鮮血が語っているかのようだ。「終わらない夏」は現在として永遠に続くのではなく、いずれどうしようもなく終焉し流れ去ってしまうから、もう決して手が届かないからこそ、それへの憧憬が生涯続いて「終わらない」のだ(この反映がエヴァの夏の設定なのだと私は思っている)。

一方でブログ旅の稲垣早希は旅が終わっても相変わらずアスカの制服を着ている。たしかにテレビ等での私服での露出は非常に増えているが、劇場でのピンネタにしても「ドラゴゲリオン」等のコンビネタにしてもあるいは「アニメ座」にしても、基本はやはりアスカである(だからこそ「私服」早希=「素早希」の醸し出す独特の「オフ」感覚は、テレビ演出的にもそのキャラの身近さを最大限強調してやまない)。私は、あるいは最終回の公開収録があったあのNGKの舞台上で、もしかするとアスカコスを脱ぐ展開があるかもしれないとほんの少しだけ予想、いや期待していた。それは結果として完全に外れに終わるのだけれど、ブログ旅が桜 稲垣早希本人の成長物語であるからこそ、かつて山口百恵が舞台にマイクを置いて去ったように、NGKでの最終回公開収録の場はその一区切りとしてありだったではないかと思う。それがいつになるかはわからないが、いずれどこかでアスカコスとの決別は彼女にとって不可避なのだろうと考えたとき、ブログ旅の完結を直接表現するのにうってつけのまさに最後のワンピースとして納まったのではないか、と夢想してしまうのだ。

あるいは、芸としてのアスカコスは今後もしれっと続けるのだけれど、ブログ旅のアスカとしてはここで制服を脱ぐのだ、という「枠の中」における演出でもよかったのかもしれない。なにせベタな期待やオチを自ら壊したりずらしてみせる「すかし芸」は彼女の得意技でもあるわけだから(斜に構えてしまうからなのか単純に恥ずかしがりだからなのかは未だに判然としない)、これはこれで予定調和でもある。

現実には、後番組「ロケみつフライデー」のMCとして相変わらずアスカコスの稲垣早希として登場することで(肝心の制服はなんと幼稚園児(!)のものになっていたが)1年の放映を終えた。特番的な回においてかつてのブログ旅を少しだけ彷彿とさせる「調査旅」がO.A.されることによって、はからずもブログ旅からの「旅立ち」が描かれたといえるかもしれない。「振り返る」という行為は、その対象が過ぎ去ってしまったからこそ可能なのだから。

多くの日本人にとって「制服」と「終わらない夏」は、過ぎ去りし青春時代を象徴する、結晶化して記憶の底にしまい込まれた心象風景のひとつだ。果たしてあのロケみつのスタッフならば、番組が終わってからのちしばらくして視聴者が幾多の名シーンを思い返すときのその感傷までも、もしかすると最初から計算して作りこんでいたのではないのか、という多少の買いかぶりを含んだ想像にまでたどりついて、私は思わず苦笑いする。ひとしきりの苦笑のあとで、あの水色の制服姿越しに見える灯台の白い壁と、空と海の深い青、照りつける日差しの眩しさ、そして、手のひらの1円玉の鈍い光を、締め付けられるような喉の渇きとともに鮮やかに思い出すのだ。

二〇一五年 八月
ぎゃばん (@gavangavan)