gavangavanの日記

書きたいことを書いております。

フリージャーナリストを個人単位で購読するしかけがほしい

twitterをやってるとフリーのジャーナリストがマスのメディアに載せられない、載らないような話をどんどん報じて、読んでいると大変面白い。昨日の郵便不正事件の裁判公判のようすをtwitter上で報告した江川紹子さん(@amneris84)とかのtweetを見ていると、新聞・テレビの報道内容がいかに歪められているかがあらためてわかる。もちろん江川さんの報告が歪められていないことを直接保証するものはないのだが、他にも同じ公判を報じている個人やジャーナリストがいて、その内容を突き合わせることで客観性が担保されている。複数の主観的視点というのが客観性を保証することにつながるのであって、単一の客観報道などというのが眉唾ものだといういい例証だろう。

他にも最近の例では、岩上安身さん(@iwakamiyasumi)の三井環元検事、佐藤栄佐久元福島県知事へのインタビュー、上杉隆さん(@uesugitakashi)の東京地検特捜の捜査手法および「出頭」問題への一連のつぶやき。記者クラブ問題に対する多くのフリージャーナリストによる問題点の指摘および会見解放への働きかけ等。それも「絶対に」マスメディアには載らない話である。

ブログでもこれまで展開されていた運動ではあるが、pull型のサービスであり検索しないとコンテンツにたどり着くことがまずありえないブログによる発信と、個人をフォローする形でpush型を実現してしまうリアルタイム型のtwitterの影響力では比較にならなかった。せいぜいコメントとかトラックバックと言う形でしかブログ記事に対する評価や宣伝がなされなかったのに対し、twitterではretweetというしかけをつかった「クチコミ」的情報伝播が津波のようにおこる。結局は受身の宣伝より能動的クチコミの威力のすさまじさなのだろう。デマやいたずらといったネガティブはあるにせよ、多くの人の良識を前提にすればクチコミほど信頼のおけるものもないからだ。まして90年代のメールや掲示板、00年代のブログやSNS,wikiを通じて我々のネットワークリテラシーはかなり向上した。「マスが客観性を担保する」ことを学んだわけだ。

こうなってくると、既存のマスメディアがやっている情報の集約と取捨選択、と言う機能が意味を失ってくる。マスメディアというのは受け手が「マス」なのであって、実際には放送電波や新聞紙面といった物理的リソースの制約のため、元来非常に帯域の狭いメディアである。ありとあらゆることを無制限に発信することはそもそも無理なわけだ。だからこそ、いま送るべき情報はなにか、を精選して発信する必要があった。

しかし、ネット通信で送り手側が送りたい内容をありったけ送ったとしても、それを多くの受け手が受信しても通信リソースはそう簡単には枯渇しなくなった。しかもリソースの利用コストはほぼ無限小になった。こうなると何も無理をしてマスなメディアの細いリソースを奪いあって、しかもその広告ベースのビジネスモデルからくる制約にしばられて不自由な発信をするくらいなら、ネット上にダイレクトに発信したほうが、発信側受信側両者にとって有利になってきた。これはマスメディアにとってはおもしろくないところだろう。

ただ問題は簡単には解決しない。マスメディアのインフラとしての仕掛けはおもったより強固だ。それは経費やコスト、ギャランティーをどのように集めてどう分配していくか、というしかけを組み込んでいるからだ。マスメディアとりわけテレビの視聴者は広告を受け入れることで商品サービスの代金から番組の制作費を支払うことを許容し、それをテレビ局は分配することでビジネスが成り立っている。しかもテレビ局というコンテンツプロバイダはテレビチャンネル設定という形で、市販のテレビシステムに固定的にビルドインされている。視聴者は漠然とテレビ映像をみたい、とおもってテレビを買ってくれば暗黙に固定されたテレビ局の番組を「タダ」で見られることになるのだ。広告代理店がつくったこの仕掛けは非常に固く、少しの外圧では壊れない。そもそもこれ以外に情報のチャンネルがあり、テレビの枠では提供されない「裏」の情報があることはテレビだけを見ているかぎり絶対にわからないからだ。そうして視聴者が拡大生産されその金が商品経由でテレビシステムインフラの維持にまわされていく。

いまネット上にはyoutubeやニコ動のような動画サイトがあり、ビデオニュースのような報道サイトもある。podcastもある。しかしこれらは基本的にpull型であり、だまっていてもみれるものではない。無料ならばブログにはられ、twitterでクチコミされることで広めることもできようが、それでは本質的にビジネスにならない。お金が回らないのだ。youtubeやニコ動には広告代理店に変わるコスト回収インフラとして機能することが求められたのだが、実際にはそれらが番組外に広告をはることで結局広告代理店の既存インフラの上に乗ってしまう。

twitter上でも活動するフリージャーナリストはみな異口同音に、ネット上の活動は完全に持ち出し、と語る。マスメディアに載らない情報を眠らせてしまうくらいなら、タダでもいいから発信して世の中に訴えていくいくほうがまだしもマシということだろう。当然ジャーナリストとしての使命感もあるだろう。しかしお金が尽きればそれも止まる。

どうやってジャーナリストのネット上の活動に対して金銭的に支援するか。ビジネスとして大儲けとまではいなくても、少なくとも活動すること自体がペイするようなインフラを作っていかないといずれ細ってしまうだろう。なにせいま活動するジャーナリストにだってマスメディア出身者が多い。ビジネスとして動いてきたマスメディアの中でプロとして鍛えられた人たちだからこそ、その活動の質を維持できる。これが単にマスメディアの崩壊だけが進んでいけば、プロのジャーナリストが養成されるルートがなくなることになる。これをどうしていくか。

twitterではジャーナリスト個人を我々はフォロー(購読)する。その人のこれまでの活動に裏打ちされた情報価値を個人ブランドに見出してチャネルをあわせている。だからその個人ブランドを金銭的に支えるための仕組みをつくるべきだろう。これは政治家への個人献金ともある種通じるものがある。twitterはその仕組みのトリガーになりうるかもしれない。

twitter上では情報発信はタダだし、受信もタダだ。将来的にある特定アカウントのtweetを読むのに課金するようなことをtwitter社が考えているかどうかはわからないが、当面twitterの優位性はその無料性によるところが大きい。だったらtwitter上でのアクティビティを通じてジャーナリストなり技術者なり作家なりのキャリアビルディングをする、twitterがそのフィールドになる可能性があるということだ。佐々木俊尚さん(@sasakitoshinao)のいうセルフブランディングのための格好の場となるだろう。

twitterではフォロワー数というのはある種のステータスであり、それだけ影響力があるということだ。無名の個人がそうなるためには地道に有益な情報発信を続けていく必要があり、それを通じて内容やスキルがブラッシュアップされる。いわばコミケのような。そこで出てきた芽をスカウトしてあつめ、プロのフィールドに乗せていくようなビジネスモデルはできないだろうか。

雑誌やテレビ局のブランドで作家やタレントを売り込むのではなく、作家やタレントのブランドで雑誌を売る仕組みに転換できないものか。漫画では一部そのような動きが起こっていると思うが、成功したとも言い難いように思う。それはブランドをもつ作家の作品は既存の出版メディアに乗ってしまうからだ。しかし、ことジャーナリズムの世界では、ジャーナリストが発信したい内容がマスメディアには載らない。本来おかしなことなのだが、これがあるからこそ、その情報が読める雑誌に大きな価値が付与される可能性があると信じたい。あたらしいメディアの登場にはそういうある種の抑圧がドライブする過程が必ずあるのではないか。だとすれば、日本の現状のジャーナリズムの状況というのは、逆説的によい環境といえるのかもしれない。