gavangavanの日記

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未来からの時間借金をやめようキャンペーン

以前からことあるごとに書いていることだけど(mixiに書いた記事は今度転載してもってこようかしらん)、エネルギーや物理リソースの境界条件が経済活動を制約する、という観点からの運動が「エコ」の概念だとすれば、時間の絶対性が人間の精神活動を制約する、という観念がまだまだ広まってないなあ、ということを感じている。

どういうことか、ざっというと、個々人の精神活動に避ける時間は眠らなくても1日最大24時間なので、ある程度世の中に消費すべきサービスが満ちてくると、この時間リソースの有限性にぶつかってそれ以上成長できなくなる、ということだ。

資本主義の社会は常に成長していかねばならず、半ば強迫的にエネルギーや資源を消費していくが、それ以上に人間の精神活動時間を消費する。そしてそれはすでにほぼ天井を打っている。テレビやネットやゲームや映画、外食、アトラクション、ショッピング、旅行など、市場のサービスは、無限の荒野に自由に進出していくことはもはやできず、お互いが有限のパイ(時間)を取り合って競争しているわけだ。

それでもむりに成長しようとすれば、本来生産のために使われていた時間まで消費に回してしまうことになる。私の考えでは、少子化もこの路線の範疇に入ると思っている。

人間の精神活動はたぶん3つに分けられると思う。一つ目は先人の知恵や知識を受け継いでいく活動。世の中の有形無形のインフラを受け継ぐ活動といっていい。2つ目は現在の自分たちのための活動。食事をして仕事をして現在の社会を運転し、また娯楽などのサービスをうけて生きていく活動。3つ目は未来の世代にインフラを受け渡していく活動。

大昔の、生存そのものに殆どのリソースを費やしていた時代は2つ目の活動だけで手一杯だったはずだ。それが社会をつくって、それを次世代に受渡していくことを学んで、生存にかけていたリソースを一つ目や3つめの活動に振り向けて人間は反映してきたのではないか。

だから1つ目の活動で先人の蓄積したインフラを受け継いだ分得した時間を3つめの活動で次の世代に渡していかないと、このフローは破綻する。それなのに、資本主義的強迫観念は3つめの時間をも自らのために消費しよう、させようと迫る。

毎日を楽しく便利に充実して過ごせば(リア充でもニートでも同じ)、その個人として最大限に幸福だろうと思う。それによって経済も発展するのだから、見た目にも悪いことはない。それでも上述の世代間のインフラ資産の継承という面からは、あきらかに破綻だ。次世代は現世代から受け取るべきものを受け取れない。子供が少ないのだから、次世代の人たちは、少ない人員で社会機能のなにもかもを動かさねばならず、自分たちのために使う時間を削られる。それは誰が取ったのかといえば、現世代の人間が未来から彼らの時間を(無断で)借金したわけだ。

この未来からの時間借金によって現世代は繁栄しているつもりになっている。いやそれでもだいぶ傾いてきているけれども。いい加減に未来から不当に時間を収奪していることを認識して、それをやめるべきだ。そのためには極限まで狭くなってしまった今の時間的視野をもっと広げる必要がある。

そうでなければ、エンデが「モモ」で描いたように、我々は時間どろぼうと将来呼ばれることになると思う。