gavangavanの日記

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まどか☆マギカをついに見たーその4:神の独り占めは罪深いかー

新編

個人的には一分の隙も見つからないくらいに完璧なる着地に成功したと思えるTV版まどか☆マギカ。2本の劇場版に再構成して公開されたところまでは、作画のクオリティの圧倒的向上など完成度の高いものになったこともあって十分許容範囲なのだけど、最終回を見たあとまず思ったことは「こんだけ完璧に終わっておきながら続編とかいまさらどうすんねん」というものだった。
(以下新編のネタバレのオンパレードです)

まどか☆マギカをついに見たーその1ー - gavangavanの日記 に書いたように、ほむら執念の時間遡行の繰り返しは皮肉にもまどかの因果の糸を束ねるだけ束ねて彼女を魔法少女の宿命から逃れ得ないところに収斂させていくだけで、まどかやほむら自身が絶望から魔女化する以外にもはや出口はなかった。ところがまどかの斜め上の願いに基づく契約のおかげで宇宙は円環の理の発現を見、過去現在未来すべての時空間の魔法少女とともにほむらの執着と絶望も救われることになった。結果としてほむらはまどかを失ったが、まどかの願いと時空再編の歴史の記憶をこの世界で唯一保持したまま生きていくことになり、そのことで逆説的にまどかを独占することになった。同時に、目に見えなくともいたるところに遍在することになったまどかは(当然ながらまどかのことを覚えている)視聴者たちの手にもしっかりと残った。これはほむらと視聴者による「神の共有」である。どうにも行き場の見つかりそうになかった閉塞的な物語が唯一ともおもえる絶妙の着地点を見出して決着をみたことは、本当にアクロバティックでもありそれでいてしっかりとした論理的な結論に立脚していて、これ以上どこをどうつづけるというのか、という印象だったのだ。

叛逆の物語

どういうストーリーが展開されることになるにせよ、新編はほむらが主人公にならざるを得ないわけで、ほむらを中心に据えるならこれはもうほむらの救済以外にはならないだろうと考えていた。しかし、まどかの強い意志と願いによって、この宇宙は円環の理に基づいて再編されることでぎりぎりのバランスで世界が存続したわけで、ほむら自身が今以上の救済を得ようとすればそれはすなわちその命つきるときの円環まどかとの邂逅以外にない。それはいずれ避けがたくやって来る瞬間であることはTV版の最終回で十分暗示されていることで、わざわざそれを直接描けば所詮フランダースの犬のラストになるのは目に見えているわけだから、あえて映像化してみせることなのだろうかと思わざるをえなかったのである。

実際の映画、新編・叛逆の物語では概ねそれが非常に巧妙な仕掛け(これが虚淵トリックかという気分)の中で進行した。円環の理システムの支配下で魔女が存在しなくなったのにもかかわらず、ほむらが実は魔女化していて見滝原市そのものを再現した巨大な結界をつくっており、その世界の中で生活するほむら自身が次第にその矛盾に気づいて謎解きを始める。そしてそれがインキュベータによる「まどか捕捉作戦」(さながら素粒子物理におけるヒッグス粒子探索プロジェクトのよう)で巧妙に仕掛けられた実験プロセス中の出来事であることが後半で明らかになる筋など、実に綺麗なつながりで論理的にもこの映画自身と先行する旧編との合わせ面のツライチ感は健在であり、ほころびはまず見つかりそうにない。結界の中なのだからだれが復活していてどういう行動をとろうと自由なわけで、そういう言い訳フィールドをうまく構築した上で、「ピュエラ・マギ・ホーリークインテット」の活躍、ほむら&杏子の探偵ドラマ的謎解き、マミVSほむらの異次元バトルと、見たいもの・見せたいものを詰めあわせてくれた。その演出はあざといくらいにケレン味あふれるものだが、まどかやさやかが登場していることによって、旧来からの観客にとってはこれはある種の夢オチだという確信のもとに見せられているわけで、制作側と観客側のある意味共犯関係がうまく成立する仕組みになっている。相変わらずこのあたりはとてもうまいなと唸らされる。

まどか☆マギカをついに見たーその3ー - gavangavanの日記 でも書いたが、ここで登場するさやか(とべべ)はTV版・旧編とは立ち位置がほむらと逆転しており、すべての謎を知る円環の理の受肉化した存在だ。すなわち、逆にTV版でのさやかの立ち位置が新編におけるほむらに与えられていて、ほむら=魔女であり、その執着=まどかのためにいままさに絶望を迎えようとしているのだということが、みごとに暗示されているのである。もちろん1回めの上映を素直に見ている際中にはそんなことには気づけないのであくまでもエンドをみた後あとからふりかえってみると浮かび上がるという話であるが、一つ一つのエピソードが全体構造の中での必然性を獲得するべく巧妙にモチーフが散りばめられているのであり(HOMULILLYの魔女文字についての考察もその一つではある)、シナリオ全体を貫く論理性の補強になっている。

そのあたりをよく噛みこんだあとで2周目の上映をみた場合に、結界の中で魔女と化して生き続けることでインキュベータの円環の理=まどかシステムの支配を阻止しようとするほむら、その絶望を救わんと導こうとするさやかとべべ、奮闘するマミ・杏子、そしてついに結界の中へ出現するアルティメットまどか。ああ、ついにほむらにとっての最期の救済の時がきたのだともはや誰しもが疑わない。そこでそう決着をつけて終わることも全く無理なくできるし、そもそも最初のシナリオは素直にそうなっていたのではないかとすら疑わせる。

ここで、ほむらの真の叛逆がはじまる。

神の独り占めは罪深いか

まさにまどかによる救済をうけようとする刹那に、ほむらは観客を含めてすべての人物の思いを裏切る行為にでる。円環の理からまどかの人格を引き剥がして、みずからが円環の理の制御権を握った上でまどかの存在する宇宙の再構成を再度試みるというエンドだ。巷の新編に対する怨嗟・苦悩・失望の声というのはこの1点に対して集中しているのであるが、はたしていったいなにが問題なのか。

ほむらの立場に立ち返って考えれば、そもそもの発端=時間遡行の願いによる契約時点で、ほむらはただまどかを取り返したかっただけである。そしてそれが唯一最大の目的であり、最後には彼女にとって生きることのよすがとなった。そしてその願いはTV版エンドではついに叶えられなかった。形式上、まどかのことを覚えているのが唯一彼女だけ、というステータスが彼女にまどかの独占を許したわけだが、あくまでもロジックの上であって実際に彼女の傍らにはまどかはいない。そしていつか彼女の終焉に訪れるまどかとの再会のときまでひたすらに魔獣と戦い続けるという、彼女にとってはいってみれば偽りの独り占めである。

先に書いたようにしかし彼女の背後には実は本質的に彼女と立場を同じくする多くの視聴者がいて、彼らとまどかの記憶を共有しているのである。ここが絶妙の均衡点であった。彼女がストーリー上でこれを踏み超えることは、視聴者との間に深刻なコンフリクトを産むことになる。そしてそれは現実になった。物語世界でアルティメットまどかはもはや存在しない。すべての時間線を記憶しているまどかも存在しない。安定点に存在したすべての決着は反故にされ、視聴者にとっての「まどか☆マギカのまどか」は新編のほむらによって独占的に奪い取られた。映画視聴後に呆然として立ち上がれず、のちに怨嗟の声をあげることになる人々の声はまさに「俺たちのまどかを返せ」という叫びである(「ほむら☆マジカ?!」とでも名前をつけたらよろしい)。TV版ラストにおいてギリギリのラインでまどか=神の共有を果たしたほむらと視聴者の共犯関係はここに至って完全に破綻した。

もともとTV版ラストの時点ですでにほむらが新編における「まどか奪還計画」を心に秘めていたのかというと、私はそれは違うだろうなとかんがえる。TV版ラストでほむらはたしかに、まどかの願ったこの世界の行く末を守っていくのがまどかを知る自分の使命だと認識していたはずだ。自分だけがそのことを知っているということがほむらにとってまどかとの唯一絶対の接続線であり、それを新たな縁にして生きていくほむらが描かれていたと思う(劇場版のラストについてはいろいろ議論があるだろう。新編の制作が決まってから公開されているわけだから当然新編との合わせ面を仕込んでいるわけで、実際あの砂漠は新編冒頭にもでてくるし最後の結界崩壊シーンの舞台になっているおなじ砂漠だろう)。素直に読めば、偽りの見滝原において「まどかがどこかへひとりでいってしまう夢をみた」というほむらに対して「そんなつらいことは私にはとても耐えられないよ」というまどかの言葉に触れた瞬間が、すべてを反転させてまどかを取り戻そうと決心した瞬間だろう。「私は、とんでもない間違いを!」というほむらの叫びは当然TV版ラスト以降の時間軸を指している。

その円環の理によって再構築された世界は覆されて、ほむら視点で整合性をとるように改変されてしまった。さやかもマミも杏子も存在するが、世界の有り様とその真実から切り離されてしまう。最後の通学シーン(おそらくTV版におけるループの起点日の朝)でほむらによる3人との決別が描かれている。彼女はもう誰も必要としていない。まどかの救済ですら拒絶してしまったのだ。

しかしほんとうのまどかはそこに取り戻せたのか、といえばこのエンドこそが偽りの独り占めではないのか。取り返したまどかはまるで人形であって、全ての時間軸のほむらを知るまどかではない。それでは結局すべては時間遡行のループ時点にもどってしまって、二人の時間は大きくズレたままだ。ほむらの背負った思いやこれまでの行動のすべては今のまどかの目には映らない。それでは結局ほむらはTV版のさやかと同一のポジションに過ぎず最後に浄化されるしか行き着くところがないわけで、ほむらが悪魔になってまで作り上げた世界はかくも脆い構造しか持ちあわせていない。

さらなる問題は、まどかの主体性はいったいどこへいくのか、という点だ。すべての魔女=魔法少女を救うとまどかが願うことで世界は一度再編された。このまどかの意志はまぎれもなく彼女の主体的意志であって、それがマミやさやかや杏子、そしてほむらとの関わりの中で醸成されたものであったとしても、まどかが自分で選びとったのだ(杏子がさやかとともに消える道を選んだことが相当に影響してはいるが)。新編におけるほむらの行為は、当然このまどか自身の選択をも反故にした。そこにまどかの意志はない。むしろ再々編後のまどかは「決まりを守らないのはいけない」とほむらに答えている。このまどかとほむらは潜在的に対立せざるを得ない。なによりまどかはほむらを救い上げるために魔法少女になったのだ。古今東西すべての魔法少女を救うという願いは、ほむらの魂を救うまで完遂・成就されることはない。この矛盾を解決しない限り物語は安定点を回復することができない。

こうなるとどうしても新編自体あるべきでなかったのではないか、といいたくもなる。しかし現実には物語は紡がれてしまった。興行の成功からいっても、話の論理構造からいっても、続編制作は必至だろう。そのときに描かれるのはまどか復活とほむらとの対決になるのか。世界再編も2度を経てしまっただけに次もまた、となればさすがに食傷であり、制作側は今回相当にハードルを上げてしまった。円環の理とまどかが分離可能であるとか、さやかが戻ってこれるとか、何がありえて何がありえないのかのガイドラインが吹き飛んでしまって、何が描かれてもおかしくない世界観になってしまったのだ。ドラマは世界に与えられた制約の中で生まれる。こうなれたらいいのにそうはなれない、そういう現実の縛りの中から葛藤が生まれる。なんでもありでは葛藤にもドラマにもならないのだ。続編があるとしてもそういうメタレベルのハードルを超えないといけないのは、なかなかに困難な道のりになる。進むも地獄、引くも地獄。悪魔ほむらの現出させた悪夢=ナイトメアは実はそこにこそある。

まどか☆マギカをついに見たーその1ー - gavangavanの日記
まどか☆マギカをついに見たーその2ー - gavangavanの日記
まどか☆マギカをついに見たーその3ー - gavangavanの日記