gavangavanの日記

書きたいことを書いております。

まどか☆マギカをついに見たーその1ー

魔法少女まどか☆マギカ。2011年初めに放送されたアニメですが、当時この作品が放送されていたこと、アニメファンの予想を裏切る展開に相当の反響がでていたことなど知っていたものの、なんにせよ魔女っ子ものであることには間違いないし、典型的萌えキャラ(キャラ原案がひだまりスケッチの人だということはだいぶ後から知った)で構成された登場人物たちのショットをみても、プリキュアですらついていけない自分の範疇に収まる作品ではあるまいと考えて、ほぼ食指は動いていませんでした。

その様子が変化してきたのはごく最近になってからで、夏過ぎになっていよいよ大詰めを迎えていた仮面ライダーウィザードに続くライダー次回作が「仮面ライダー鎧武」であり、鎧武者なのにフルーツモチーフというトチ狂ったようなプロットに度肝を抜かれたのに加えて、そのメインライターを務めるのがまどマギ虚淵玄氏だ、という情報が目に入ってきてからです。

虚淵氏の名前はさすがに私でも耳にしたことのあるほど著名な作家さんでありますが、その作品の方向性については、やれエグいだの、死屍累々だの、トラウマだのダメージでかいだのという、ふつうに聞いたかぎりおよそ褒め言葉には聞こえないものだったわけであり、また鬱展開ライダーか、と暗澹たる気分にひたりながら情報収集を始めた、というのがことの端緒であります。

しかし調べてみると、ゲームシナリオから出発してアニメの本もものにされている、非常に作家性の強い脚本家であり、その緻密な構成としっかり書き込まれたキャラの魅力については太鼓判を押している記事も多く、なにより私のツイッターTLからも複数クラスタから独立に「虚淵がライダー?マジか?見なければ」的書き込みが怒涛のように流れ込んでくるに及んで、さてどこからこの作家さんの作品をチェックしてみるべか、と考え始めたところ、一にも二にも「まどか☆マギカを見ろ」という声が圧倒的多数なわけです。折しもTV版を再構成した劇場版に続く続編の新作映画が秋公開ということで、巷でもエヴァ祭りを想起させるようなムーブメントが始まりつつあったところであり、さらにBS11でもTV版の再放送がはじまるというではありませんか。しゃあない、いよいよまどマギを見てみるか、ということで重い腰をあげることになったわけです。

で、ふたを開けて見たところ。完全にドハマりしました。あまロスなんかどっか吹っ飛びました。3話まで我慢してみろ、といわれたわけですが、まあたしかに最初のほうはこの作品の方向性についてある程度の予備知識が入ってなかったら途中でぶったぎったに違いない展開ではあったものの、いつまでたっても魔法少女とやらになりそうにない主人公、のちにイヌカレー空間という通称を知ることになる魔女の結界、その独特の美術デザイン世界はたしかに異様な、それでいて妙に引き込まれる作品世界に徐々に首を突っ込んで行く羽目になったのでした。そして3話での分り易すぎる死亡フラグの立ち具合とその結末。これ自体はまあそうか、なのですがキャラデザがキャラデザだけにそのギャップを埋めるのは並大抵ではなく、当時リアルタイムで視聴していた人たちが暴れだしたのもさもありなん。

こうなってくると週1のBSの放送をまっていると日が暮れる。全12話がおわるのは年末ではないか。これはDVDもやむなしか、と思っていたところにこれまた新作映画のキャンペーンか、11月初めの連休中にGyaoで無料一気放送とのツイートがTLに。渡りに船とはこのことである。4話から一気に飯も食わずにどどーんとラストまで。小さい画面ではありましたが、こりはすごい。それまでのなんとなくひっかかるイベントやキャラの行動の不整合の数々が、あとからスパーッときれいに嵌まり合って、そういうことだったのか!という、最終の絵面の整合感ときたらものすごい衝撃でありました。エピソードの進行にあわせてフレームアウトしていったその周辺ですべての図形の延長線が一本につながるツライチ感は爽快といっていいもので。

もっとすごいのはその世界観の整合性だけでなくて、それが登場人物たちの行動の一つ一つ、さらにいえばその行動の基盤をなす感情こそに、その世界のすべてのありようが立脚して構成されていて、なおかつそれがストーリー上であきらかになるというこの極めつけの論理性!そして物語のいきつく先が見てる人間にとってはなんつー斜め上と思わされる意外性を示しつつも、そのシナリオの論理性ゆえに最終的にはだれもが「やっぱそこしかないだろ」というところへきっちり着地しているという決着感。ここまでキレイに終わった作品も近年めずらしいんではないかと思えるほど。ここまで完璧に終わっておいて、これで続編の映画とかどうやったんだよおい、とか思わず言わずにはいられなかったという、なんにしてもこの作品はなるほどエポックメーカーだわと納得の出来でした。完全にエヴァを超えちゃってると思う。

そしてTV版を再構成した劇場版2本をぐるぐると巡回、その勢いで先週、今週と2回ほど新編「叛逆の物語」を見に行ってきた次第(結局その後4回も劇場に通うことに)。こっちについては「蛇足」という見解も世にはあろうなあ、という感想。出来としては例によって恐ろしく論理的に作られたシナリオで唸る他はないのだけれど、TV版の完璧なるエンドに比べたら、どう読んでもこれは途中経過なんだよなー。よってこれをやっちゃったら「論理的には」続きをさらに作らないといけないんじゃないのかというのが私の推論ですが、それはさておき。新編の感想については最後に節を改めて述べることにして、ここではストーリーよりもキャラに重点をおいて感想を書き連ねていこうと思います。というのも、この物語はキャラの心の動きがそのままシナリオのドライブフォースになっているので、話の流れを縦に追いかけるよりもキャラごとに筋道をみていくほうがものを言いやすいところがあるのです。

以下、新編も含めてのネタバレを一切考慮せずに走るので、まだ見てない方はここでお立ち止まりを。

まどかとほむら

ほんとうならせめてピュエラ・マギ・ホーリークインテット(新編で初めて名乗るがたぶんにマミの個人的趣味が暴走してるように思える。最初聞いたときは見滝原ホーリークインテットとかに聞こえて、どこのコントグループやねんとおもった)の5人は別々に語りたいのだけれど、まどかとほむらだけは陰陽・表裏・光陰対になっていてどうにも切って切り離せそうにない。新編の劇場版がでたことによって、劇場版すら対になってしまった(タイトルカラーをみれば容易に想像がつく)。

まどか。本編の主人公。なのに最後近くまで変身しない。というかOPではふつうに魔法少女なのにそういうシーンは10話まで一切無く。OPのまどかはぐるぐると時間遡行を繰り返してたときのほむらの視点なのだろう(だからほむら自身が同じフレームに出てこない)。最初のループにおいてまどかはすでに魔法少女として登場する。ここで体の弱い自分では何もできない(と自身が思っている)ほむらにとってのまどかは完全にアイドルだ。同時に登場する先輩魔法少女マミももちろん崇拝の対象になりうるのだが、そこから同じところに降りてきて自分に声を掛けてくれたまどかにほむらは完全にアテられた。これがほむらにとっての不幸の始まりとも言える。

まどかの博愛主義(それが人類普遍への愛とまではいかなくても、少なくとも彼女の関わる世界のスケールでは博愛なのだ)は徹底している。ほむらに声をかけたのだって保健委員として当然の仕事を果たしたのであって、ことさらほむらだからではあるまい。それでも心臓のせいで体が弱い、という一点でほむらは他のクラスメートよりも逆説的に一歩前に飛び出したのであり、そこにまどかがいたのである。彼女にとってはその視野の中がすべてであった。

まどかはその典型的ドジっ子外見とは違って相当に頭のいい子である。そしてその感受性の強さもかなりのものだ。彼女の鋭敏なセンサーは四方に張り巡らされている。1話他で繰り返される朝の母親との会話でもつねに仁美のことを気にしているし先生の恋愛ウォッチングも鉄板だ。一見才能と自信に溢れたマミの、その真の孤独をさらりと見抜いてすかさず支えになろうとするし、さやかが魔法少女になったときにもだまってパトロールに出るさやかの心情をしっかり慮って、エントランスで出待ちしてまで自分もいっしょにいこうとする。さやかの痛覚をオフにした自暴自棄の戦い方を見て「あれで(心が)痛くないはずがない」と言い切るし、ソウルジェムの重大秘密とキュゥべえの背信が明らかになったにも関わらず、さやかをもとに戻せるならとキュゥべえと契約しようとさえする(ほむらに実力で阻止されたが)。魔法少女の定めを知って絶望から錯乱するマミを苦渋の思いで殺害するし、最後に残ったグリーフシード(あれは五線譜が刻まれているからさやかの落としたもの。使わないで大事に身につけていたのだろう)をほむらのために使って時間遡行による運命の修正を遺言するなど、その決断力・行動力と冷静な判断力はすでにこの時点で神レベルである。ほむらにとってはひたすら神々しく見えていたとしても不思議ではない。

まどかにとっては人の痛みも自分の痛みとおなじように感じられる。すべての人の不幸を悲しみ、その幸せを願う。その願いの強さが宇宙の法則すら変えた。常人にとっては斜め遙か上の解決法(たったひとつの冴えたやり方)である「過去現在未来すべての魔女が生まれる前に消し去る」という願いも、このまどかならばたしかに思いつくだろうし、そして成し遂げてしまうだろう、それだけの説得力をこのシナリオとキャラの動きは持ち合わせている。

最後の時間軸では、まどかは最後の決断に至るまでの間、終始優柔不断で自ら行動できないキャラのように一見みえる。しかしマミの孤独を救うのはまどかだし、なにくれとなくさやかを支えていたのもまどかだ。彼女は彼女のするべきことをいつも必死で考え、自分にできることをきちんと果たす。傷ついて引きこもっているように見えても、次の瞬間にはだれかに対峙して進むべき道を探す。正体を表したキュゥべえに対しても、彼らの(人類から見れば)身勝手なロジックに対して決して一歩も引かない。土壇場でとても強いのだ。この主人公がいるからこそ骨太のストーリーが生きているし、「いままでのほむらちゃんを絶対に無駄にはしない」という意志の強さ、そしてこの上なくクレバーな一発逆転劇を各エピソードが決定的に裏打ちしているのだ。まどかの意志こそがこのストーリーの中核であり終着点だ。だからこそ新編におけるほむらの叛逆はこの究極の着地点をちゃぶ台返ししたまま再構築せずに放り出していることになるのである。

ほむら。彼女は完璧なアイドルにアテられてしまったファンだ。アイドルを地の果てまで追いかける超絶熱心なファンだ。その意味では実は視聴者たちと立場を一にする。もちろんその立ち位置の相似性が視聴者に判明するのは10話になってからだが、それが明らかになってから遡ってみても彼女の行動は逐一整合性がとれていて、そして痛ましい。失った神の像を求めて時間の悪魔になってまで残された道標をたどる。彼女のいじましい行動がまどかの因果を束ねてより一層深刻な結末へと収斂していく様は、本当にひどいアイロニーだ。まるで地下アイドルを追いかけて力の限り応援して支えて、それが奏効すればするほどそのアイドル自身は階段をステップアップして自分から遠ざかっていってしまう、真夏の蜃気楼をおいかけるかのようなその姿がほむらに重なって見える。それだけに見ている側はほむらに対して大きなシンパシーと、それと真逆方向の嫌悪感を同時に抱いて、目が離せないと同時にまるで見ていられないというアンビバレンツに苛まれることになる。なんという罪作りなキャラクターだろう。

彼女にとってはまどかの生存が最大の関心事なのはもちろんだが、時間遡行を繰り返すたびまどかが自分のことを忘れてしまう、立場もどんどん遠ざかってしまいにはストーカーさながらに影から人知れず彼女をインキュベーターの魔の手から守り続ける立場に追い込まれていく。頭ではわかっていてもその本心ではまどかに自分の存在をわかってほしいという欲がどうしても捨てられない、見ていたいと同時に見ていてほしい。にも関わらずまどかが時を繰り返す自分の真実を理解できないようにみずからが追い込んでしまう状況。これらがほむらの闇を拡大していく様子が1話から再度たどってみると稠密に描かれていて正直正視ができない。8話でのキュゥべえ狙撃によるまどかの契約阻止とその後の堰を切ったような感情の吐露がまさに慟哭であって、10話を経たあとでは彼女の感情を抑制した台詞はすべて叫びに聞こえてくる仕掛けになっている。

人の生きる糧とは他人との関係性だろう。良い物にしろ悪いものにしろ、誰かが自分のことを知ってくれていると思えるからこそ多少の苦しさがあったとしても生きていられるのであって、自分の存在や行動原理が誰からも認知できない、特に自分の生きる縁(よすが)である人にすらそれが伝わらない、伝えられないのだとすれば、生きることにいかほどの価値があるのか。

「誰も知らない、知られちゃいけない。デビルマンが誰なのか。何も言えない。話しちゃいけない」

これを地でいっているのが時間遡行終盤のほむらである。むしろ「言っても無駄」というオプションが上乗せされている分デビルマンよりも数段過酷であろう。

もう一つ参照例を出そう。07年の仮面ライダー電王。この作品も時間移動がモチーフになっていて、過去にトラウマを抱える人間と契約した怪物=イマジンがその人の願いを叶えることと引き換えにその過去の時刻へ跳び、ある目的を果たそうとするのを時を移動するライダー電王が阻止しながら、その人物の心も救い取っていくという物語であるが、この作品にも平成ライダーの前例にもれず2号ライダーが登場する。

仮面ライダーゼロノス=桜井侑斗。

彼は登場時から非常に孤独な心を閉ざした人物として現れる。 彼は本来ライダーになる資格(時空間上の特異点)のない人間であるが、自分の恋人と娘を怪物の魔の手から守るために、ある大切なものと引き換えにゼロノスに変身する。

それは記憶。他人の中にある自分自身に関する記憶。これを糧にしたカードを消費して変身する。変身をとくとカードは消失してしまう。カードはもとになった記憶と連動していて、カードの消失とともにその人物の中にあった彼に関する記憶が消えていく。ライダーとして人を守るために変身すればするほど、時には身を挺して守ろうとした相手から自分の存在が忘れ去られてしまうのである。戦い終わってもそれを感謝されることは決してない。それどころか自分のことを覚えている人物は一人もいない。すべての人から記憶が失われたとき、カードが尽きて彼自身もその存在する縁を失い、消滅する。もともと仮面ライダーは異形の超人で孤独なアンチヒーローであるが、過去の仮面ライダーでここまでの壮烈な孤独を強要されたライダーはおそらくいないと言える、ライダー史上随一悲壮なライダーである。

覚悟を得るには対価が必要だ。一度何かを失った者だけがその代償に覚悟を得る。その覚悟がほむらを支えている。自分自身がまどかや周りから忘れ去られてしまうことにも耐えて出口の見えないループを繰り返す。そうだとしても。まどかが円環の理として全時空に遍在する存在として昇華し消え去ってしまうこと。たとえまどか自身が望んだたった一つの方策だったとしてもほむらには受け入れられなかった。だからこそ彼女だけが世界の改変前の記憶を承継してまどかのことを覚えていることができた。そしてそのまどかは全ての時間線を把握する存在だ。壮烈なまでに孤独な戦いを続けてきたほむらの行為とその心の導線までも理解してくれる唯一の存在。目に見えなくても触れられなくとも、まどかの存在をたしかにほむらは実感することができる。それが彼女にとっての神の独占の達成だったのだ。彼女だけがすべての魔法少女の思いを救うというまどかの願いを背負って戦い続けることができる。ここがまどかを失ってなおほむらが生き続けていられる、この時間軸を先に進めていける唯一の言い訳であったかもしれない。その意味でTV版ならびに劇場版のエンドはしっかりと完結していて、もうここしか落とし込みようがないところでピシっとはまりこんだのだ。

それだけではない。視聴者自身もまた、まどかの記憶をほむらと共有しているのである。ほむらは結局まどか=神をその手にすることはできなかった。まどかはだれのものでもなく時空のすべてに遍在している。ゆえに観念的にはすべての視聴者自身もまどかをその手にすることになったわけだ。こんなわかりやすい安定点は他に存在しえない。ある意味共犯関係といってよい。よって本来ここから新編のストーリーへとほむらが「勝手に」歩みだしてしまうのは、神=アイドルの冒涜である。新編への嫌悪感は「俺達のまどかを返せ」という視聴者=ファンの叫びである。が、この話については新編のところで語ろう(まどか☆マギカをついに見たーその4:神の独り占めは罪深いかー - gavangavanの日記)。

まどか☆マギカをついに見たーその2ー - gavangavanの日記
まどか☆マギカをついに見たーその3ー - gavangavanの日記
まどか☆マギカをついに見たーその4:神の独り占めは罪深いかー - gavangavanの日記